越前では法話を聴くことを、おちょもんという。これはお聴聞の訛ったもので、明日は○○さんとこでおちょもんやけど参らんけ、などと使われていた。ほぼ死語と化しているのが寂しい。
この「お」と「御(ご)」の使い分けは、訓読みの和語なら「お」、音読みの漢語なら「ご」と発音するそうだが、お返事、お礼状、お食事などのように日常語になっている語では和語と同じように「お」を付けるそうだ。また美称化する場合にも「お」が使われる事が多いとのことである。
報恩講の通夜布教──この通夜という表現が好かん、越前では夜伽(よとぎ)といい、夜寝ないで付き添うことをいうのだが、今まさに目を落とした御開山の枕辺で、御開山からお聞きしたご法義を讃嘆するのだから夜伽という表現が親しい──で、会場進行役がご聴聞と発語していたのだが少しく耳障りではあった←わがままやなあ。
そんなこんなで、聴聞という漢語が一般化し和語になっていない本山と違って、越前では、聴聞という言葉が一般化しており、日常語になっているので聴聞という行為を美化して、お聴聞という表現になったのであろうと我田引水しておく。ご法義はお法義って言わないのと云われると少しく困る(笑
越前の先輩の門徒は、よく「聴聞に極まるんにゃぞ」と言っていた。子供の頃は言葉を漢字化出来ないので何のこっちゃと思っていた。聴も聞も「きく」ということであるが御開山は「化巻」の『平等覚経』p.401の引文の聴聞の左訓に「ゆるされてきく、信じてきく」とされておられる。
ゆるされて聴くということは、己の意思を働かせてきくことであり、信じて聞くとは、聞こえるままが私の信であるような聞き方を仰りたかったのであろうか。聞は聞こえるという受動態で表現することが出来るが、聴はきこえるという受動態表現はしないと聞いた事があった。
ともあれ、越前の門徒は、聴聞を語句分解して「聴くと聞こえる」と示し、聞こえることが極まっているから「聴聞に極まる」と言っていた。いわゆる聞即信である。聴いているままが聞こえる本願力が働いている相(すがた)なのだが、信のない芸能として法を語る(騙る)坊さんが多いのは困ったものではある。
『蓮如上人御一代記聞書』に、
(93)
一 信もなくて、人に信をとられよとられよと申すは、われは物をもたずして人に物をとらすべきといふの心なり。人、承引あるべからずと、前住上人(蓮如)申さると順誓に仰せられ候ひき。「自信教人信」(礼讃 六七六)と候ふ時は、まづわが信心決定して、人にも教へて仏恩になるとのことに候ふ。自身の安心決定して教ふるは、すなはち「大悲伝普化」(同)の道理なるよし、おなじく仰せられ候ふ。(*)
と、あるのだが、坊主の信なきことは、まことに困ったものではある。
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