しとはこの時西にむかふへからす

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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深川倫雄和上の仰せに、

西の方角を大事にしたほうがええ、せめて五年、いや三年、西の方角を大事にするように心がけるがええ。父も往った、母も往った、友達も往った、そう思ふて西の方を大事にするようにすると西の方角がありがとうなるけぇの。

と、あった。夕日の沈む西方に、阿弥陀仏のいますお浄土があるなんてジジババの迷信の極みだと思っていた。仰せであるから方向コンパスを持って確かめるほどではないが、西のほうへ足を向けて寝るようなときは少しく足をずらしたり、立小便は西に向わないよう気をつけ、西の方角を大事にするうち西の方角がありがとうなった。
御開山は『安楽集』にある曇鸞大師の記述p.247を元にして、

(23)
世俗の君子幸臨し
勅して浄土のゆゑをとふ
十方仏国浄土なり
なにによりてか西にある

(24)
鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず

という和讃を作っておられる。 リンク「凡情を遮せず」
「証巻」や「真仏土巻」での曇鸞大師の引文の仕方を窺えば、「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」p.737という御開山の覚りを目指す、大乗菩薩道としての本道の仏教理解が窺える。
しかし、決して善導大師、法然聖人が説かれた、娑婆と穢土という、被救済者としての凡夫の立場を崩されなかったのが御開山であった。
ともあれ「義なきを義とす」とか、「故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひし」p.771と、凡夫を強調した御開山ではあるが、『教行証文類』という、恐ろしく難解な書も著されたのも、御開山であった。
古来、「凡情を遮せず」といい、浄土真宗は愚者のご法義ということを強調してきたのだが、それは、聖道門仏教の体系を見据えて、その上で「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」p.839という意を、なんまんだぶ一つという「誓願一仏乗」p.195である聖道・浄土を超える一仏乗なのであった。
日本の産んだ宗教的天才とは、法然聖人に冠せられる称号である。明治以来西欧の思想の導入に汲々としてきた日本であるから、教科書などで学ぶ「宗教改革と」いう言葉で想起されるのはドイツのマルティン・ルター(1483年-1546)であろう。しかし、日本では承安5年(1175年)、法然聖人43歳の時のシナの善導大師の『観経疏』の一文「一心專念彌陀名號 行住坐臥 不問時節久近 念念不捨者 是名正定之業 順彼佛願故(一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに)」の、「かの仏願に順ずるがゆゑに」の、なんまんだぶを称える一心一行に依って驚天動地の仏教理解を示されたことが「宗教改革」であった。いわゆる鎌倉仏教の宗教改革運動の嚆矢は法然聖人であり、日本の仏教史上で僧侶が死刑にされるというほどの弾圧を受けたのが法然聖人の説かれた日本浄土教であった。現代に残る日本の有力な仏教諸派(法華・禅)は、その後塵を拝しているといっても過言ではないだろう。
御開山親鸞聖人は、法然聖人の説ききられなかった処を『教行証文類』という教・行・信・証・真仏土という体系であらわして下さったのである。
「西の方角を大事にしたほうがええ」。ありがたいご教授であった。

一。しとはこの時西にむかふへからす、又西をうしろにすへからす、きた・みなみにむかふへし。おほかたうちうちゐたらんにも、うちふさんにも、かならす西にむかふへし。 もしゆゆしく便宜あしき事ありて、西をうしろにする事あらは、心のうちにわがうしろは西也、阿弥陀ほとけのおはしますかた也とおもへ。
たたいまあしざまにてむかはねとも、心をたにも西方へやりつれは、そそろに西にむかはて、極楽をおもはぬ人にくらふれは、それにまさる也。『示或人詞』

深川倫雄和上も梯實圓和上も、御開山を理解する為には、法然聖人を学ぶべきと仰っておられたが、真宗坊主は、いま少しく『西方指南鈔』や『和語灯録』にある豊かな浄土思想を学ぶべべきだと思っていたりする。どうでもいいけど。(林遊の悪口はこういうところから出ているかもであり(笑 )

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