蓮如さんは、『御一代聞書』174で、
おどろかす かひこそなけれ 村雀
耳なれぬれば なるこにぞのる (*)
と、仰せである。
鳴子(なるこ)とは、野鳥(主として雀)の食害から農産物を守るため、鳥が止まれば音を出し鳥を追い払う目的で使われてきた道具である。浄土真宗は、本願を信じ念仏を申せば仏に成る、という驚天動地のご法義である。しかし、その驚きが、いつしか当たり前のようになってしまって、聴聞でも、耳なれすずめのようになってしまいがちである。
越前の年よりは、お聴聞はな、何回同じ話を聞いてもな初ごと初ごと聴くんにゃぞ、と言っていた。これは、たぶん『御一代聞書』130の
ひとつことをいくたび聴聞申すとも、めづらしく初めたるやうにあるべきなり。(*)
の意であろう。誰でも好きな歌は何回聞いても聴き飽くことがない、という曲目の一つや二つはあるだろう。自分が生きてきた時代の証(あかし)のような音楽である。そのような意味に於いて、和上様方に、同じ事を何回も何回も聴かせて下さったのは有り難いことであった。
家内が、深川和上のあれやってとか、梯和上の口ぶり聴かせてというので、身振り手振り口吻を真似て実演していたものであった。
しかし、なんまんだぶによる済度というご法義を、御開山が力を尽くして示して下さったのだが、いつしか言葉に耳慣れてお聖教を披くのも懈怠しがちである。善導大師は、『観経』の読誦大乗を釈して、
「読誦大乗」といふは、これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。 しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。 もし智慧の眼開けぬれば、すなはちよく苦を厭ひて涅槃等を欣楽することを明かす。(*)
と、言われた。現代の鏡ならガラスと裏面にアルミや銀を反射材として使うのだが、当時の鏡は金属鏡であったから、常に磨いていないと酸化して見えにくくなることを、お聖教を眼にあてることに譬えたのであろう。
ともあれ、違った視点から『教行証文類』の世界を味わうために「漢文」→「読下」→「現代語」→「漢文」というようにWikiArcで、それぞれの科段の番号へリンクしてみた。ちなみに漢文は林遊が読みやすいように適当に空白で分別している──綿密な考証を経て御開山の真意を構築しようという注釈版と違い、漢文の原典版では御開山の著述の通りに再現されている──ので、正確な学習のためには、本願寺派の「原典版」や「浄土真宗聖典全書」などの校異を参照されたし。
蓮如さんは「ひとたび仏法をたしなみ候ふ人は、おほやうなれどもおどろきやすきなり」(『御一代聞書』123)(*)とも仰せであるが、「なんと驚くべきご法義であったか!」と、味合うのも御恩報謝の楽しみ事ではある。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ