ご法義を継承していく人

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗も歴史の中にあるから、出来上がっている伽藍を強ちに否定すべきではないのであろう。しかし、真宗の坊さんがよく言う「浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる」を、ことさら強調するならば、下記の鈴木大拙師の言葉にも留意すべきではなかろうかと思ふ。

親鸞はお寺を作らなかった。愚禿に相応なのは「草庵」であって七堂伽藍ではなかった。輪奐(りんかん)の美を極めるというのは都人(みやこびと)の為すことで、鄙人(ひなびと)のあづかり知るところではない。念仏は草の庵が最もふさわしいのである。
大きな屋根の下から漏れ出る念仏には虚偽が多く、空念仏の合唱には弥陀は耳を仮(か)さぬ。そこには一般があるだけで特殊はない。そうして特殊── 一人 ──が本願の対象である。愚禿の信仰には殿堂ほど不要なものはない。
今日の本願寺の如きものは祖聖の志を相去ること実に幾千万由旬であろう。本山の祖師堂には愚禿はいない。一人の親鸞は──もしそこに在(いま)すとすれば──燈影裡で泣いてござるに相違ない。しかし親鸞宗の真実性はある。殿堂から消え去っても、軒傾きかけて雨さえ漏らんとする妙好人の茅屋の中に、いつも脈々の命をつづけているから、それだけは安心であると言ってよい。妙好人──実にこの名ほど親鸞宗に貴い呼び名はない。一人はいつもその中に生きているのである。「ゆゆしき学生たち」は、祖師の信仰を継承していく人ではないのである。『日本的霊性』p98

なお、妙好人とは、『観経』流通分にある「若念仏者 当知此人。是人中 分陀利華(もし念仏するひとは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり)」(*)の分陀利華を、善導大師が五種に開いて、

「分陀利」といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。 この華相伝して蔡華と名づくるこれなり。
もし念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。(*)

の、「人中の妙好人なり」からである。妙好人とは、阿弥陀如来の本願を受け入れて、なんまんだぶを称える人を誉め称えることばだったのである。

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