等正覚と正定聚

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0

(27)
念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなはち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし

じいさん(父親)の好きな和讃で、かってじいさんが94歳で西方仏国へ移住した自宅から出棺の時の挨拶にこの和讃を誦した。
ここの「等正覚」は、魏訳では仏の十号の一だが、御開山は晩年には新訳(ここでは唐訳の『如来会』)の用語を使われるので、この和讃での「等正覚」は正定聚の意味である。
この和讃には思いいれがあるので、過去のHPに期した記事をサルベージしてみた。なお、WikiArcの「等正覚」の項に追記したので文末にリンクをしておく。

そうぼんこ 2
すなはち弥勒におなじくて

ソウボンコ(総報恩講)の季節になると、今年八十八になる家の頑固な爺さんから聞いた話を思い出します。家族で御開山の御和讃でどれが一番好きかという話題になった時のことでした。

「あれはチュウバシ(屋号)のソウボンコの時やった。うら、ホンコさんの御和讃をあげていて、うらんたなもんが(私みたいなものが)弥勒菩薩におなじやといわれて、嬉して嬉して思わず涙が出てしもた事があった。
ほやけど同行のもんが見てるさけ、知らん顔して御和讃をあげさしてもろたが、ありゃぁ有り難かったの。なんまんだぶ、なんまんだぶ」

爾来、爺さんの葬式の夜伽の晩には「念仏往生の願により」の御和讃をあげることになっています。

年寄りは何年何月という言い方をあまりしません。何々の時という言い方で自分の身に起こった事を表現します。
御開山様が法然聖人に遇(あ)いなさった時とか、越後に流されなさった時、稲田でご苦労なさった時というような表現をします。

このような表し方は、自分の気持ちと親鸞聖人とが一つになってしまっているからでしょうか。歴史的な時間軸の中で自分を捉えるのではなく、自己の心象風景に重ね合わせた時間の中で浄土真宗のご法義を味わっているのでしょうね。

当時七十七で、小生から見ても涙とはもっとも無縁だ思っていた頑固な爺さんの頬を濡らした涙とは一体何なのでしょう。

私が御和讃を読むのではない。御和讃が私のことを読んで下さる、御和讃が私のことを包んで下さる世界があることを教えてもらった事でした。

いつでも、どこでも阿弥陀様(親さま)がごいっしょでした。

念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなはち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし

WikiArc「等正覚」へのリンク
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ