阿弥陀さまの大悲

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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深川倫雄和上は、常々、お説教は、てれーと聞いてみな忘れてしまえ、と仰っていた。

そもそも一所懸命聴くから、わけがわからんようになる。おさとりの阿弥陀さまのお救いの話なんだよ、それを凡愚下劣な我々が聴いてもわかるはずがないではないか。ほほ~たいしたもんやなと聴いて、お領解は、なんまんだぶ、なんまんだぶでよろしい。だいたい真剣に聴くからご法義を間違える。

20数年前、こういう深川和上の法話に痺れたのだが、爾来、判らんことを解らしてもらおうとお聖教を披くようになった。で、私がお聖教を読むのではない、お聖教が私を読み込んで下さってあるという意味を少しく分るようにお育てをうけたものである。
以下は、梯實圓和上の質疑応答からの引用であるが、和上様方のご教化はさすがである。ありがたいこちゃ。

阿弥陀さまの大悲

法然聖人において、回心以前の大悲観と、回心以後の大悲観は異なるのでしょうか。

 そうですね、やはり異なっているのでしょう。それは自分自身が大悲に包まれて、そのなかで味わっていることと、大悲を外から味わっているというのとのと違いがあります。
どこが違うのかといいますと、お慈悲は私が知るものではなくして、私はお慈悲に見護られているということが味わえるようになっています。私は仏さまを知るものであり、お慈悲を知るものであると考えている間は、わからないことが苦になります。
しかし、私は知るものではなくて、常に知られているのものであり見護られているものであると気付けば、知らないことが苦にならず、忘れたことも苦にならず、また聞かせていただき、知らせていただくことを楽しむようになります。
こういった違いが出てくるかと思います。このことはとても大事なことでございますので、よく味わっていただきたいと思います。

念仏衆生摂取不捨という言葉が『観経』にあり、御開山は御消息で、

真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。(*)

と、西方仏国へ往生して、還相の菩薩として、正覚の種(業因)である、なんまんだぶを称えることをお勧めできる者になるとは、有り難いこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

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