伝統と伝説の地吉崎。
宗教には、不思議な伝承や奇瑞譚が生まれることがあり、ある意味では法味の味わいとしての意味もある。
吉崎の地には『嫁おどし伝説』の『肉付き面』という伝承があり、『肉付き面』を見せる寺がある。あわら市の柿原地区には嫁威という地名も残っていたりする。
家の爺さんは20数年間、4月の蓮如さんの御忌の時期には別院で蓮如さんの「お絵説き」をしていた。そして、「吉崎よいとこ一度はおいで、寺の数ほど面がある」という枕で、「ほんまもんの鬼の面は、ここにあるぞ」と言って、「お絵説き」の場の柱に懸けた鏡を覗かせていたものであった。営業妨害だな(笑
さて、伝説や奇瑞譚への関心が信仰の入り口になることもあるのだろう。しかし、現代では史料批判を通しての考察は重要である。宗教という形而上に関することがらであるから資料の真偽を検討することは大事なことである。
吉崎のお山(丘)の上には、本向坊了顕の墓がある。文明6年(1474)に吉崎の御堂が燃えた時に、本向坊は『教行証文類』中の一巻を火事から守るために腹をかっさばいて腹中に納めたという伝承がある。この逸話の初出は、明和年間(1764~1771)に著された『真宗懐古鈔』である。現存する蓮如さんの言行録にはなく、約300年を経て出てきた話であるから少しく?である。御開山の言行の伝承である『御因縁』や『正統伝』、『正明伝』が最近脚光を浴びていたりもするのだが、真偽の判断は厳密な史料批判を通して考察すべきであろう。
ともあれ、本向坊了顕のエピソードに関しては、蓮如上人の手になる資料が第一級資料であると思ふので、文明六年の吉崎焼失について書かれている帖外御文をUPしてみた。
この文明六年九月の日付が記されたお文では、本向坊了顕については全く論じておられない。蓮如さんの行跡を記した書物(浄土真宗聖典全書五 相伝篇下)にも、本向坊了顕の「腹ごもりのお聖教」に関する記述は見つけられなかった。無いことの証明は「悪魔の証明」だし、本光坊の「腹ごもりのお聖教」に関する一次資料があるなら提示してもらえれば幸いである。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
吉崎焼失時のお文