因なくして他の因のあるには非ざるなり
他力のご法義に対する非難の一が、「無因有果論」である。衆生の往生の因が全く無いのに、何故に無上涅槃のさとりの浄土へ生まれることができるのか、あり得ないではないかという論難である。
仏教で説く自因自果の「因果の道理」に背いている邪説であるというのが、他力の浄土門に加えられ/加えられていた非難である。いわゆる御開山の説く本願力回向という仏教は「修因感果」因となる行を修めて、それにふさわしい果を得ることという因果の道理に背いているというのである。
それに対して、衆生が阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえる報土に往生するには、阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまえる信をもってのみ往生が可能であるというのが御開山の本願力回向論であった。衆生の起こす信は、たとえ頭に付いた火を払いのけるほど一所懸命になっても真実ではないからである。至上心釈の「たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく」p.217だからである。
御開山は「信文類」で曇鸞大師と善導大師の釈、源信和尚の釈を引き「総決」して、
爾者 若行 若信 無有一事 非阿弥陀如来 清浄願心之所回向成就。
:しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。
非無因 他因有也 可知。
:因なくして他の因のあるにはあらざるなりと、知るべし。p.229
と、されている所以である。
「証文類」では、『論註』の「願心荘厳を明かす」釈を引いて、
説 観察荘厳仏土功徳成就 荘厳仏功徳成就 荘厳菩薩功徳成就。此三種成就 願心荘厳 応知。
:観察荘厳仏土功徳成就と荘厳仏功徳成就と荘厳菩薩功徳成就とを説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまへるなりと、知るべし〉(浄土論)といへり。
応知者 応知此三種荘厳 成就由 本四十八願等 清浄願心之所荘厳 因浄故 果浄。非無因 他因有也。可知。
:〈応知〉とは、この三種の荘厳成就は、もと四十八願等の清浄の願心の荘厳せるところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり。因なくして他の因のあるにはあらずと知るべしとなり。p.321
と、されておられるのであった。本願力回向のご法義は、いわゆる外道の「無因有果論」ではなく、阿弥陀如来の四十八願の清浄の願心を因とするとされたのである。
なお、『論註』の当面は、「無因と他因の有にはあらざるを知るべしとなり」(七祖p.139) であり、無因有果と邪因邪果の説を否定しているのだが、御開山は「因なくして他の因のあるにはあらざるなり」 と阿弥陀如来の本願力回向を強調されたのであった。
そもそも、浄土真宗は、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」p.135という往相も還相も本願力回向のご法義なのである。
いわゆる衆生の因果の道理と全く異なる、阿弥陀如来の救済の因果の道理が浄土真宗というご法義であった。
梯実円和上は「真仮論の救済論的意義」で、「自業自得の救済論」と「大悲の必然としての救済論」を論じておられるが、それはまた浄土真宗の真仮論でもあった。
浄土真宗の真実の信心とは、御開山が至心・信楽・欲生の三信を結釈して「真実の信心はかならず名号を具す」p.245とあるように、自己の拵えた信を解体し、選択本願の、なんまんだぶを称えることであった。もちろん、信なき行は、「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」であるのは言うまでもない。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→「真仮論の救済論的意義」
2016年5月26日 11:03 AM
仏教初心者に、自因自果の「因果の道理」は解りやすく、仏教入門に適しているように感じる。これを聞いて疑問を感じない人と感じる人がいるはずだ。条件がいろいろあるのは教えられるが、今回のテーマには、なかなかいきつけないのは自分だけだろうか。入門は優しく見えるが、奥は大変に見えにくい。これを読んでも明確には腑に落ちない。つくずく仏縁のなさを感じる。なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい。
2016年5月30日 10:17 PM
このところつながらなくて、寂しくて、寂しくてたまらなかった。安定して送ってください。
なんまんだぶ ありがたい
2016年6月8日 11:54 PM
仏教に於いては、業と輪廻を説き、この業と輪廻からの解脱を目指します。
その場合に「因果の道理(業と輪廻を繰り返す正当な理念)」を説きます。いわゆる最古相に属するといわれる仏典の『ダンマパタ』に、
67 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔して、顔に涙を流して泣きながら、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善くない。
68 もしも或る行為をなしたのちに、それを後悔しないで、嬉しく喜んで、その報いを受けるならば、その行為をしたことは善い。
と、あるように「善因楽果 悪因苦果」として、果から因を考察するのが本来の因果論でした。ここで注意するのは楽や苦の果は、善でもなく悪でも無く無記でした。高森親鸞会でいう「善因善果 悪因悪果」などという教説は、仏教で一番否定される決定論になってしまうのでした。善によって善の結果が将来され、悪によって悪の果が将来されるのであれば、向上ということはあり得ないことになります。
リンク先の『真仮論の救済論的意義』では、いわゆる自業自得と大悲の必然としての救済論について論じられていますが、衆生の「因果の道理」は聖道門仏教の論理であり、阿弥陀如来の因果の道理は、衆生の因果を超えているというのが法然聖人と親鸞聖人の示して下さった浄土門という仏法なのでした。
聖道門と浄土門は論理の立て方が全く違う(次元が異なる)のですが、高森親鸞会の人はこれが全く解らないから困ったものです。高森親鸞会の高森顕徹氏は、齢八十半ばを過ぎているの思うのだが、田舎の一文不知の門徒が、後生の一大事を阿弥陀如来に託し、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて往生浄土を願っていた門徒を、
『本願寺の体質を問う』(144頁)で、
所詮は、案ずるな、煩ろうな、計ろうな、心配するな、そのままじゃ、無条件じゃ、念仏さえ称えておれば死んだら極楽が本願寺の主張だと、従来より指摘し続けて来た親鸞会の批判が正しかったことを証明したにすぎない。
と、行文類で「」念仏(なんまんだぶ)を莫迦にした「大行者 則称無礙光如来名(大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり)」という≪法≫を無視した高森顕徹氏は、
世尊説法時将了 慇懃付属弥陀名
五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞
見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨
如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身 {法事讃}
世尊法を説きたまふこと、時まさに 了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は多く疑謗し、 道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。
という、『法事讃』の文をどのように理解しているのであろうか。
ともあれ、聖道門と浄土門は全く違う論理体系の上で論じられているのであるから、私の想いを離して、なんまんだぶを称えてみることをお勧めです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ