七輪とは、木炭を使用する調理用器具である。
昔はどこの家庭にもあったのだが、最近はほとんど見ないので知らない人も多いだろう。燃料には木炭を使うのだが火つきが悪い。そこで木炭の着火用に七輪の底に丸めた新聞紙などを入れ、その上に消し炭(薪や炭の火を途中で消して作った軟質の炭)や乾いた木片などを敷いて、その上に木炭を載せて下の火付け口を開けて火を点ける。
木炭は着火しにくいので、このような手順で火を点ける。そして酸素補給の為に火付け口を団扇などで扇いでやるのである。
この七輪をお譬えの法話を深川倫雄和上から聴いた事がある。
ある日、大勢の男達が道を歩いていた。
ふと見ると、道端で一人の男が一所懸命団扇(うちわ)で七輪を扇いでいる。
「あんた、見ればさっきから一所懸命扇いでいるけど一体何をしてるんや。」
「へぇ、火ぃを発そうと思て朝から扇いでいるんですが火がつきません。」
ひょいと見ると七輪の中に火種がない。
「馬鹿じゃなかろか、いくらなんでも火種がないのにどれだけ扇いでも火が付くもんか。」
こう言って行ってしまわれたのが三世十方の諸仏。
次に阿弥陀さまが通りかかった。
命がけでうちわで扇いでいる七輪を覗くとやっぱり火種がない。
「そうか、火種がないか。そりゃあ辛いなぁ悲しいよなぁ。
お前に火種が無いのなら、この弥陀が、お前の心の中にとび込んで、
火種となってともに燃えていこう」
こうして往生成仏の火種となって出来上がったのが、なんまんだぶつの名号である。
こういう趣旨の法話であったが、まるで「仏願の生起」という真宗の術語の淵源を知らせてもらうようで有りがたい法話であった。
『無量寿経』では、四十八願の根本願である第十八願の大行を「欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚(わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)」(*)とする。この乃至十念のなんまんだぶ(名声)を十方に超えしめんという意を、以下のように重ねて誓われてある(重誓偈)
我至成仏道 名声超十方
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟靡所聞 誓不成正覚
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。(*)
御開山は、この文がうれしくて「正信念仏偈」で「五劫思惟之摂受 重誓名声聞十方(五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えん)」と、されたのであった。
浄土真宗は、なんまんだぶを称え聞き、浄土へ往生する往生浄土のご法義なのである。往相の結果(往生成仏)という存在のゼロポイントは、また還相という利他教化地という豊饒な大乗菩薩道の出発のゼロポイントでもあるのだが、信心獲得という個の自覚を追及する「知愚の毒」に侵された近代という名のもとでの教育の洗礼を受けた真宗の坊さんにはワカランのでした。彼らは善導大師が示された指方立相である、西に沈む夕日の彼方にある、さとりの界である浄土が理解できないのでした。
ともあれ、成仏の火種もない我に火種となって必ず往生成仏せしめると、本願の「欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」の乃至十念の行を、
我、名号となりて衆生に到り
衆生とともに浄土へ往生せん
若(も)し衆生 生まれずば我も帰らじ
と、讃詠なさった善知識がおられた。成仏の火種の無い我に、本願成就の、なんまんだぶという火種となって称えられるのであった。
我、名号となりて衆生に到り
衆生かえらずんば、我もまた還らじ
の、火種となって燃えている名号法なのであった。
浄土真宗は、本願に選択された、なんまんだぶを称えて往生成仏するご法義なのでした。ありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ……称名相続