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だいひ
〈悲〉の原義は〈呻き〉を意味する梵語のカルナーであるともいわれ[1]、(他者の苦痛をわがこととして)苦しむこと、嘆き悲しむことから、〈同情・あわれみ〉を意味するようになった。慈悲と熟語される慈悲の〈慈〉は、梵語「マイトリー (maitrī)」であり、「ミトラ (mitra)」から造られた語で、本来は〈友情・親しきもの〉の意であるが、転じて〈慈しみ〉、純粋の〈親愛の念〉を意味する。大乗仏教においては、他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し「大悲 (マハー・カルナー mahā karunā)」と称する。仏の〈悲〉はとくに、大悲と呼ばれ無縁の大悲(あらゆる差別を離れた絶対平等の慈悲)だとされている。
御開山は、可聞可称の〈なんまんだぶ〉を、「大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。……しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。」(*)と大行であるされ、この行は大悲の願より出でたのであるとされる。この大行という名目は衆生の側から立ったのではなく、阿弥陀如来の大悲の願より起こったのであり、これが本願力回向の「行」なのであった。そして、この回向された〈なんまんだぶ〉を称える生き方を「しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す」(*)と、言われたのであった。
- 三種の慈悲(三縁から転記)
『浄土論註』の性功徳釈より。
- 〈正道の大慈悲は出世の善根より生ず〉といふは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とするゆゑは、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに道等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに、〈正道大慈悲〉とのたまへり。
- 慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根とす。ゆゑに〈出世善根生〉といふなり」と。浄土論註の性功徳釈を真仏土巻で引文
『浄土論』の偈文「正道大慈悲 出世善根生」の大慈悲の語を『浄土論註』で解釈する中で、「慈悲に三縁あり」とし、衆生縁、法縁、無縁とする。この三縁という語は『大智度論』巻四〇や『涅槃経』梵行品などの 三縁の語に依られたものであろう。ここでの縁とは、「縁ずる(心のはたらきが対境に向かってはたらき、そのすがた(相)を取ること)」という意味で、慈悲がどのような関係性によっておこるかを三種に分けて考察されている。この中の大悲を無縁の大悲という。
なお、三縁については諸経論でさまざまな解釈があるが、一つは衆生縁の慈悲といわれるもので、人間関係の因縁によっておこす慈悲で、父母、妻子、親族などを縁じておこす慈悲で普通には愛といわれるものである。我・法ともに有とする執着にもとずく慈悲であるから小悲という。
法縁の慈悲とはあらゆる縁によって生ずるものであるから、その関係、道理によっておこす慈悲を法縁という。我という実体はないという仏教の道理は体得しているが、一切の法は空であることを体得していないので中悲という。
無縁の慈悲とは、迷いの世俗を超越した仏・菩薩のみにある、縁なくしておこす絶対平等の慈悲であるから無縁という。人・法の一切法は空であると体得した智慧よりおこる慈悲であるから大悲という。この智慧を因とする無縁の大悲が浄土の法性であり根本である。そして、真仏・真土の浄土とは、この大慈悲をエネルギーとして性起された涅槃の境界である。
- 参照
『大智度論』巻40
復次慈悲心有三種。衆生縁法縁無縁。
- 復た次ぎに、慈悲心に三種有り、衆生縁、法縁、無縁なり。
凡夫人衆生縁。声聞辟支仏及菩薩 初衆生縁後法縁。
- 凡夫人は衆生縁なり。声聞、辟支仏、及び菩薩は、初は衆生縁、後は法縁なり。
諸仏善修行畢竟空故名為無縁。
- 諸仏は、善く畢竟空を修行するが故に名づけて、無縁と為す。
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