御開山は、第二十願を、植諸徳本の願、係念定生の願、不果遂者の願、至心回向などの願名で呼ばれている。この第二十願について『西方指南抄」の十七条御法語で、
或人念仏之不審を、故聖人に奉問曰、第二十の願は、大綱[1]の願なり。係念といふは、三生の内にかならず果遂すべし[2]。仮令通計するに、百年の内に往生すべき也。 云云
これ九品往生の義意釈[3]なり。極大遅者[4]をもて、三生に出(いで)ざる[5]こころ、かくのごとく釈せり。又『阿弥陀経』の已発願等は、これ三生之証也と。[6]「十七条御法語」
と、ある。この「三生の内にかならず果遂すべし」の三生について、源信僧都の師である慈慧大師の『極楽浄土九品往生義』から該当部分を読み下してみた。
第二十願の願文は、
設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚。(たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。 )
である。この文の「係念我国(おもい〔念〕を我が国にか〔係〕け)」れば、そのおもい〔念〕を「果遂(果たし遂げる)」というところから、浄土門では古くから「果遂の願」とも呼ばれてきた。この果遂という言葉は、現在に於いてではなく、未来を表現するに親しい言葉だとして、三生果遂という概念が生まれたのだと思ふ。
ただ、御開山は果遂という表現を、第二十願の自力念仏の真門から第十八願の選択本願の弘願へ導いて下さった意を「果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。」(*)と感佩されておられるので、三生果遂という概念は使われない。未だ来ない未来を思ひ描くより、今という現在を重視なさったからであろう。いわゆる「念仏衆生 摂取不捨(念仏の衆生をおさめ取って捨てず)」の語に、法然聖人の示して下さった、口に称え耳に聞こえる念仏(なんまんだぶ)の意を、信楽とは「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」(*)とされたのであろう。御開山の念仏という語は、口になんまんだぶと称えている事実を指すのであり、念仏という漢字語を指すのではない。
近代、特に戦後は西欧の個人主義(神の前での個としての私というキリスト教の影響)からか、個の自覚と信心を同値する風潮がうるさいのだが、仏教とは、教えを行じて証す「教行証」である。この教行証の行から御開山は、願作仏心という信(浄土真宗の菩提心)を別開されたのであって、なんまんだぶを称える行を無しにして「信文類」で信を論じておられるのではない。
信心正因というドグマに毒された浄土真宗の僧俗には、口になんまんだぶと称える愚直な行為は受け容れがたいのであろう。「迷行惑信(行に迷ひ信に惑ひ)」、「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」(*)という、大行の、なんまんだぶと称える行を知らないからであった。
昔の布教使は、阿弥陀さまの第十八願のご信心を領納できないご門徒に、
一世をかけても駄目なら二世をかけて、二世でも駄目なら三世をかけて、必ず救うの親さまの、果たし遂げる第二十願、三生果遂の願があるから、なんまんだぶを称えるべし、という説教を節をしていたものであった。
法然聖人は『徒然草』の三十九段で、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」と言われたそうだが、たとえ本願力回向のご信心が解らなくても、三生のうちには、念仏すれば、往生す、であった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ