長崎称念寺の「除『昼』の鐘」についてのニュースがあった。
http://www.chunichi.co.jp/kenmin-fukui/article/kenmin-news/CK2016123002000182.html
越前長崎の称念寺は、蓮如さんが越前吉崎へおいでになる前は、北陸一体はおろか奥州にまで教線を張る時宗(時衆)の大道場であった。
いわゆる口に〈なんまんだぶ〉をとなえれば、西方極楽へ往生するという教義によって当時の民衆に絶大に受け入れられたのが時宗であった。
この隆盛な時宗に対して、蓮如さんは「信心正因」という教化をされたのである。
吉崎での御文章の最初期ともいわれる帖外の御文章(御文章集成八:浄土真宗全書p.234)では、俗人が坊主分に対して、
まづ聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもて本とせられ候。そのゆへは、もろもろの雑行をなげすてて一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として仏のかたより往生を治定せしめたまふなり。このくらゐを「一念発起入正定之聚」とも釈したまへり。このうへには行住坐臥の称名念仏は如来我往生をさだめ給ふ御恩報尽の念仏と心得べきなり。これを信心決定の人とは申なり。(*)
と、語らせるのであった。(この一文は後に「聖人一流章」(5-10)として流布された。)
いわゆる無信単称(信なくして単に称名するだけ)の信無き称名の民衆に対して、本願力回向の「仏のかたより往生を治定せしめたまふ」他力の「信心」のご教化であった。
このようなご信心のご教化は、当時の民衆に主体的に自からの生死のいく末を問うのであった。これにしびれたのが群萌のごとき越前・加賀の我らの先祖である百姓であった。生きている意味とその目的を「信心」という言葉に投射して、自らの生きる意味を発見したのであった。
もちろん、〈なんまんだぶ〉を称えることは、時宗の示すように往生浄土の業因なのであるが、信心という補助線をいれることによって〈なんまんだぶ〉を称えることの意味の転換を起こしたのである。
このような変化は、〈なんまんだぶ〉を称えるだけで西方極楽に往生できる、という無信単称の時宗に属していた大衆にとって驚天動地の事柄であったから、雪崩を打つように吉崎の蓮如さんの元へ群集したのであった。
まるで盤面のオセロの駒をひっくり返すように、大衆が時宗から浄土真宗へひっくり返ったのであった。それは時宗の〈なんまんだぶ〉を称えるという素地があったからこそ、蓮如さんの信心正因というご教化の真意が発揮されたのであった。
そのような意味において、時宗の越前長崎の大道場であった称念寺は、浄土真宗のご法義に於いて歴史的役割を果たしたのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ