御開山は「正信念仏偈」の、
本願名号正定業……以下の文を、鏡のご影、安城のご影に讃名として記しておられた/おられる。
また『尊号真像銘文』で自ら解釈もされておられるから大切な文であったのだと思ふ。
三法立題という文を記述していて思ったのだが、この文は以下のように、行・信・証の次第になっている。
行:第十七願
本願名号正定業
本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。
信:第十八願
至心信楽願為因
その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする。
証:第十一願
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
信を得て如来と等しい徳をいただき、涅槃のさとりに至るのは、第十一願の功である。
(現代語訳は梯實圓和上の訳を依用した)
帰敬偈の、帰命無量寿如来 南無不可思議光を真仏・真土に配すれば、
真仏:第十三願 真土:第十二願
帰命無量寿如来 南無不可思議光
限りなき「いのち」の如来に帰順し、はかりなき光の如来に帰依したてまつる。
になる。(身土不二だから真土がないとの突っ込みは却下(笑 )
ようするにお勤めの時間が無い時は、
帰命無量寿如来 南無不可思議光
本願名号正定業
至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
と、誦し言葉にあらわして本願に想いをいたすこともあるのであろうと思ふ。
ともあれ、浄土真宗の信心とは、「本願の名号は、正しく往生の決定する行業である」ということを受け容れた三心即一の信楽である一心を正因とするのであった。
それが、世尊我一心 帰命尽十方無礙光如来 願生安楽国(世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず)」の『浄土論』の讃歎門と不離の「一心の華文」であった。
信心正因の語をドグマ化して捉え、幾百万幾千万の、ひたすら〔なんまんだぶ〕を称えてきた名もない同行を揶揄する真宗坊主は、前念命終 後念即生と、いっぺん死ねばいいのにと在野の田舎門徒は思っていたりする。
なお五願立法の場合、教は行文類にある。一乗海釋の「しかるに教について」がそれであり、「しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり」である。
いわゆる第十七願の諸仏の〔なんまんだぶ〕せよというのが教であり、それを修するのが行なのである。第十七願を教法とも行法ともいう所以である。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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