国立国会図書館デジタルコレクションからダウンロードしてあった『柴門玄話』を流し読みしてみた。
いわゆる「信心正因 称名報恩」は浄土真宗の御常教なのだが、戦後に封建思想の名の下で「恩」という思想が排斥され「称名報恩」ということが現代人には受け容れ難いものになってしまったのだと思ふ。
僧俗の中には、称名は報恩であるからしなくてもよいという者までいるので困ったものである。
そのような意味において、信心正因は動かないのだが、信心正因と称名報恩はセットにするものではなく別々に領解するものだと思っていたりする。
ともあれ、信心正因という「稟受の前後」の他に、「法相の表裡」という解釈もあるのだという『柴門玄話』を読んで感じたことをメモ用に記述してみた。「名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず」(p.816)書物を読まんとするや、という声が聞こえてきそうなのだが、これはこれ文の出拠を調べながら〔なんまんだぶ〕を称えさせて、ご本願を知らせて下さる楽しみ事の遊びではある。ありがたいこっちゃな。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→『柴門玄話』について
2017年1月28日 1:45 PM
ここのところ「信心」についていろいろご説明下さり大変ありがとうございます。何か幅ができたようでうれしいです。このブログは、能ある鷹は爪を隠すで。大変内容が濃く有り難く読ませてもらっております。消化不良多いですが。
なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい
2017年1月29日 5:44 PM
林遊は信心については煩いです、信心デストロイヤーですから。
浄土真宗は他力のご法義と云いますから、自分の中にこれで間違いないという「物」が出来たら、即座に否定するべきなのでした。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ