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もし念仏するものがいるなら、まことにその人は白く清らかな蓮の花とたたえられる尊い人であると知るがよい。
という画像を貼っている。
宮沢賢治は、「法華経」に説かれる常不軽菩薩を理想としたそうだが、浄土真宗の家に生まれた彼には、聴聞の場で、なんまんだぶ、なんまんだぶと称える愚昧な門徒こそが、「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり(若念仏者 当知此人。是人中分陀利華)」だということにまで理解が及ばなかったのであろうか。
これこそ、なんまんだぶの法を伝えることを懈怠した真宗坊主の怠慢なのだが、御開山が『華厳経』と『涅槃経』を引いて、
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ (*)
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり (*)
と、された、なんまんだぶを称える信心は仏性であるから、互いに尊重してお互いの仏性を礼拝する心持で接するのが、浄土真宗における常不軽菩薩の精神であろう。
かって、本願寺派では「信心の社会性」という語で教団をリードし改革しようという試みがあった。しかし、信無き社会派の坊さんを量産するだけであった。
僧侶としてのアイデンティティー(主体性)を、浄土を目指す「念仏往生の本願」におくのではなく、世俗社会の中に求めようとした結果である。社会という近代の概念に幻惑されて、浄土を喪失した坊主の「成れの果て」であろう。
浄土教は、此土と彼土の二元論に立脚する宗教であり、一元的に把握する宗教ではない。浄土において/浄土を目指すことにおいて、自己の存在の意味を知る仏教である。本願力回向という仏陀のさとりの世界から届く、称えて聞く、なんまんだぶを知らないから、御開山が示して下さった「現生正定聚」という世界を知らないのであろう。
なんまんだぶと称える行為は、現に私の上に仏陀のさとりの世界が顕現しているのであり、それを御開山は現生正定聚といわれたのである。
ありがたいこっちゃな。
なんまんんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→「正定聚」