少しく調べたいことがあったので、覚如上人述の『最要鈔』を国立国会図書館デジタルコレクションから持ってきてUPしてみた。
覚如上人は、当時の鎮西浄土宗の多念義の傾向に対抗する為か、一念義的な傾向が窺える。いわゆる本願成就文の「信心歓喜 乃至一念」の一念の信を強調するあまり、乃至という〔なんまんだぶ〕の称名を軽視する嫌いがあると思ふ。
確かに信後の称名には、行者の意許(こころもち)では御恩報謝という意味もあるのだが、なんまんだぶと称えてなんまんだぶと聞える、浄土から顕現する呼び声を等閑に付する恐れもあるのである。
法然聖人は、
又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。
かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。
又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。(和語灯録p.633)
かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。
又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。(和語灯録p.633)
と、「信をば一念にむまるととりて、行をば一形にはげむべし」とのお示しであった。なぜなら乃至十念は、本願に誓われた往生決定の「行」であるからである。
御開山は、「信巻」で至心・信楽・欲生の三心を結釈されて、
まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同)とのたまへり。 p.254
と、「真実の信心はかならず名号を具す。」とされておられる。行と信あいまっての、行信不離(*) が御開山の示して下さった浄土真宗というご法義である。その意味で信の一念に腰かけて、なんまんだぶを称えない者は、御開山の御同行ではないのであると思ふ。
御開山は、『大経讃』の結論として、
(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ (*)
と、「念仏成仏これ真宗」と、されておられ、真宗は〔なんまんだぶ〕を称え往生を目指すご法義であった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→『最要鈔』