wikiarcにUPしてある『興福寺奏状』の表題の解説を記(しる)してみた。
そのうちに、『興福寺奏状』の各条ごとに善導大師のように、
いぶかし、今時の一切の行者、知らずなんの意ぞ、凡小の論にすなはち信受を加へ、諸仏の誠言を返りてまさに妄語せんとする。 苦しきかな、なんぞ劇しくよくかくのごとき不忍の言を出す。
の、信受の突っ込みを入れたいと思っていたりする(笑
以下追記した語。
『興福寺奏状』は、元久2年(1205)奈良興福寺の衆徒が法然聖人の提唱した専修念仏の禁止を求めて朝廷に提出した文書で、起草者は、法相宗中興の祖といわれる解脱坊貞慶上人とされる。法然聖人弾劾の上奏文というべき文書であり、これを因として、承元の法難と称される法然師弟に対する死罪を含む専修念仏への弾圧がなされた。御開山は『教行証文類』の後序で、
- ひそかにおもんみれば、聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道いま盛んなり。しかるに諸寺の釈門、教に昏くして真仮の門戸を知らず、洛都の儒林、行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。
- ここをもつて興福寺の学徒、太上天皇[後鳥羽院と号す、諱尊成]今上[土御門院と号す、諱為仁]聖暦、承元丁卯の歳、仲春上旬の候に奏達す。主上臣下、法に背き義に違し、忿りを成し怨みを結ぶ。これによりて、真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、罪科を考へず、猥りがはしく死罪に坐す。あるいは僧儀を改めて姓名を賜うて遠流に処す。予はその一つなり。
とされておられる。法然聖人の提唱した選択本願念仏という教説は、仏教における宗教改革といえるような先鋭的な仏教思想であり、当時の──ある意味では現代においても誤解されやすい──仏教界には異端邪説としか受け取れなかったのであった。
なお、余談ではあるが、この『興福寺奏状』の起草者と目されている解脱坊貞慶上人は、死の半月前に口述された「観心為清浄円明事」(*)で、「予は深く西方を信ずる」としているから、いつしか貞慶も浄土教に帰順していたのであった。また、念仏弾圧を命じた後鳥羽上皇も承久の乱によって隠岐の島へ配流され、無常にかられ阿弥陀如来がまします浄土へ往生したいという意で、『無常講式』(*)を作り南無阿彌陀佛と述しておられるのであった。
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