『論註』の、
足の指、地を按ずるにすなはち金礫の旨を詳らかにす。
の脚注に追記してみた。
『維摩経』仏国品では「その心、浄きに随って、すなわち仏土浄し(随其心浄則仏土浄)」という。この意を舎利弗に教える為に、「仏が足の指でもって地を按(仏以足指按地)」えて、仏の感得している浄らかな仏国土を舎利弗に示現し、この苦悩渦巻く穢土も、釈尊の浄らかなさとりの眼から観(み)れば浄土(きよらかな土)であると示される。いわゆる善悪や浄穢という対立の世界は煩悩が描き出している虚妄の世界であり、煩悩を寂滅した仏のさとりの立場からみれば、全ては縁起するものであり、故に自性を持たない無自性であり、この故にあらゆる認識しうる、もの/ことは空であり、その空であることによって全ては平等であるとする。これが仏教の縁起の思想における平等という存在の視点である。これを悪しく理解すると、単純な唯心論に陥り、ただ心の持ち方によって、この世が穢土にもなり浄土にもなるという発想になる。
しかし、このような発想は、穢土と浄土という法然聖人の二元論の原則を継承した御開山からみれば、
しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す。 (信巻p.209)
という穢土の他なる浄土を考察しない、己心の浄土、唯心の弥陀という自性唯心の立場であろう。此土(この世)という語には、彼土(かの世)という概念が内包されている。生きること、生きる意味を考察するすることは、同時に、死ぬこと、死ぬ意味を推察することでもある。浄土仏教の歴史は、その死ぬことの意味を、千数百年かけて観察し考察し推察して洞察してきたのである。生き難い此土で、愛憎煩悩に憂い悩乱し、さとりへの手がかりすらない凡夫にとって、この世を超えた煩悩の寂滅した、さとりの浄土の存在は、不安の中にありながらも不安の中で安心できる世界である。その浄土を目指し、さとりを完成しようとする生き方が浄土仏教である。
その穢土と浄土の二元論の上に「信心の智慧」によって、本願力回向による一元的な自然の浄土を感得せられたのが御開山であった。それは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん(諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念)」という、なんまんだぶの名号を聞信するところに開かれるて来る「如-来(如より来生する)」する世界であった。これが浄土を真実とする「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」である。
浄土真宗の「信心正因」とは、なんまんだぶと称えることが往生成仏の業因であると信知した者の前に開かれる、本願力回向の世界(世開)であった。それはまた、釈尊の感得せられたさとりの世界であり、なんまんだぶと声になって届いている、智慧の念仏の躍動する世界である。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ