幸西成覚房の教学

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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先日のwikiarcの「八万四千の法門」で、幸西大徳にふれた。

幸西大徳は鎮西派の『法然上人行状畫圖』第二十九などでは、

比叡山西塔の南谷に、鐘下房の少輔とて、聰敏の住侶ありけり。弟子の兒にをくれて、眼前の無常におどろき、交衆ものうくおぼえければ、三十六のとし遁世して、上人の弟子となり、成覺房幸西と號しけるが、淨土の法門をもとならへる天台宗にひきいれて、迹門の彌陀、本門の彌陀といふことをたてて、十劫正覺といへるは迹門の彌陀と。本門の彌陀は無始本覺の如來なるがゆへに。我等所具の佛性と、またく差異なし。この謂をきく一念にことたりぬ。多念の遍數、はなはだ無益なりと云て、一念義といふ事を自立しけるを、上人、此義善導和尚の御心にそむけり。はなはだしかるべからざるよし、制しおほせられけるを、承引せずして、なをこの義を興しければ、わが弟子にあらずとて、擯出せられにけり。  (*)

などと、法然聖人から破門されたなどの非難を浴びせているが、これは一念義を排斥する為の多念義の宗風の鎮西派からのいわれなき中傷であろう。
幸西大徳の教学については、梯實圓和上の『玄義分抄講述』に詳しく、その一部をUPしてある。 →「幸西大徳の一念義
幸西大徳は非常に御開山と近い思想であり、「八万四千の法門」についても御開山と同じなので、『玄義分抄講述』から「(四)教法の開示」をUPした。
旧漢字を使っているので読みにくいかもしれないが、《「門餘八萬四千」トイハ一乘ヲ加テ餘トス。》 以下だけでも読めば、御開山が「八万四千の仮門」といわれた意が領解できるであろう。

→「第二講 序題門

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智慧の念仏

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蓮如さんは『御一代記聞書』で、

聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。

とお示しである。
しかし『教行証文類』は難解なので、どうしても先達の解釈や注釈を参照したくなる。
そのような意味では、本願寺派の註釈版の『浄土真宗聖典』は、脚注が豊富なので在野の門徒にはありがたい。

と、いうわけで御開山の『述文賛』の引文についてwikiarcで考察してみた。ネットで「大正蔵経」を見ることが出来る現代と違って、八百年前に生きられた御開山は聖典へのアクセスはかなり不自由な環境にあられた。
そのような意味では、所覧本の写誤による御開山の誤読ともいえるかも知れないのだが、信心の智慧によって生死を超える道を示して下さったのはありがたいことである。御開山にとっての信心は、仏陀のさとりを内包しておられたのであろうとさえ思ふ。ありがたいことである。

→「つぶさに…たまへるなり

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八万四千の法門

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蓮如さんは、お文の「八万の法蔵章」で、

 それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり。

と、いわれている。
ここでの「八万の法蔵」とは、釈尊の説かれた八万四千の法門を指し、たとえ愚かな凡夫であっても、自らの死んで往く後世(ごせ)を知る者は智者であるとされる。
これは法然聖人の示された、

 聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。

の意を承けたものであろう。

さて、この「八万四千の法門」について、御開山はかなり特別な釈をされておられるので、この意をwikiarcの「八万四千の法門」の項に加筆し追記してみた。

→「八万四千の法門

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浮生なる相

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昔の人の文章は故事来歴を使うので悩ましい。

ただ、少しく、その故事来歴の出拠を知ると文章に深みが感じられて、ありがたいこっちゃと思ふこともある。
言葉を、ただ辞書的な意味で受け容れるだけではなく、その言葉の背景を知ることも学ぶという営みであろう。

と、いうわけで、有名な「白骨のお文」の出だしの文である「浮生なる相」についてwikiarcに追記してみた。

「浮生なる相

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済度

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某所で、浄土真宗で使われる「すくい」という言葉に混乱している人がいた。

真宗宗歌の二番では、

とわの闇より すくわれし
身の幸(さち)なにに くらぶべき
六字のみ名を となえつつ
世の生業(なりわい)に いそしまん

と、あり、この「とわの闇より すくわれし」の「すくい」がは浄土真宗における「すくい」の意味である。
と、いうわけで──どんな訳やろ(笑)──浄土真宗における「すくい」という言葉を示す「済度」について、WikiArcの「済度」について少しく追記してみた。

「済度」

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南無阿弥陀仏

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暑いし、錆びついた頭を使うと智慧熱が出て熱中症になりそうなのだが、wikiarcの「南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)」の項に追記してみた。
以下の画像は御開山の六字釈の一部。

→「南無阿弥陀仏

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畢竟涅槃にあらざる

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畢竟涅槃にあらざる

かって大谷派の教学者が、真文類p.348 の、

以是義故。如來實不畢竟涅槃。

この義をもつてのゆゑに、如来は実に畢竟涅槃にあらざる

の文を、ここでは如来常住をあらわすのだから、

如来は実に畢竟涅槃せず

と訓むべきだが、「畢竟涅槃にあらざる」と読むならば、「如来は実は究極的な涅槃ではない」という意味になり、御開山の意図が判らないとしていた。
本願寺派の「註釈版聖典」には、このような御開山の読み替えの意図が脚注に記してあるのだが、大谷派では圧倒的に聖典への考察が不足しているのだと思ったものである。
来世の浄土往生や、無住処涅槃の還相を説き切らない、大谷派の「近代教学の、正体見たり枯れ尾花」の気分であった。

→[畢竟涅槃にあらざる]

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