畢竟涅槃にあらざる
かって大谷派の教学者が、真文類p.348 の、
以是義故。如來實不畢竟涅槃。
この義をもつてのゆゑに、如来は実に畢竟涅槃にあらざる
の文を、ここでは如来常住をあらわすのだから、
如来は実に畢竟涅槃せず
と訓むべきだが、「畢竟涅槃にあらざる」と読むならば、「如来は実は究極的な涅槃ではない」という意味になり、御開山の意図が判らないとしていた。
本願寺派の「註釈版聖典」には、このような御開山の読み替えの意図が脚注に記してあるのだが、大谷派では圧倒的に聖典への考察が不足しているのだと思ったものである。
来世の浄土往生や、無住処涅槃の還相を説き切らない、大谷派の「近代教学の、正体見たり枯れ尾花」の気分であった。
→[畢竟涅槃にあらざる]
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ