蓮如さんは『御一代記聞書』で、
聖教は句面のごとくこころうべし。そのうへにて師伝口業はあるべきなり。私にして会釈することしかるべからざることなり。
とお示しである。
しかし『教行証文類』は難解なので、どうしても先達の解釈や注釈を参照したくなる。
そのような意味では、本願寺派の註釈版の『浄土真宗聖典』は、脚注が豊富なので在野の門徒にはありがたい。
と、いうわけで御開山の『述文賛』の引文についてwikiarcで考察してみた。ネットで「大正蔵経」を見ることが出来る現代と違って、八百年前に生きられた御開山は聖典へのアクセスはかなり不自由な環境にあられた。
そのような意味では、所覧本の写誤による御開山の誤読ともいえるかも知れないのだが、信心の智慧によって生死を超える道を示して下さったのはありがたいことである。御開山にとっての信心は、仏陀のさとりを内包しておられたのであろうとさえ思ふ。ありがたいことである。
→「つぶさに…たまへるなり」
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2017年8月16日 10:26 AM
お陰様で、第二十願,化粧,胎生、三生果遂,化身土文類に書かれてある事がつながってきた気がします。有難うございます。
2017年8月17日 1:51 PM
お説教などでは、なかなか浄土真宗の大綱とか綱格を話すことはないですね。
だから、聴聞する側では混乱してしまうことが多々あります。
御開山は、あらゆる宗教現象を真・仮・偽という概念で示されます。
偽というのは、人の欲望や煩悩を肯定し煽り、結果的に苦しめてしまう宗教。仮とは先に述べた八万四千の法門のように偽と対決し自力によって証を求める宗教。真とは、自らの内に真なるものは無いという事に気づいて、阿弥陀仏の真実を仰信していく宗教の意です。
その阿弥陀仏を仰信する中にも、真・仮があるということを詳説しているのが、化身土巻の上巻でした。いわゆる経の説相から本願の三願に配当し、真と仮を分判されたのが三願真仮論です。
これを「願海真仮論」とも「六三法門」ともいいます。
「化身土巻」は、この仮と偽を説いているのでややこしいのでした。
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以下のリンク先は書きかけですが、画像があるので判りやすいかも
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E5%85%AD%E4%B8%89%E6%B3%95%E9%96%80