美しく齢を取りたいと言ふ人を
アホかと思ひ 寝るまへも思ふ(河野裕子)
この句の作者は全く知らないのだが、いい句である。
昼の世間の付き合いや喧噪と離れて、夜の一人で床で寝入る時間は、一日の来し方を思索の時間でもある。
物書を生業とする輩は、言葉を操り本質から目をそらせることに、たけているので、自らの老醜を化粧によって覆い隠す術に長じているのであろう。
そのような、世間に面(つら)を出す前の、朝の化粧する鏡台の上のわたくしを見て、アホかと寝る前に思ふのであろう。
御開山は、陶淵明の『帰去来辞』を依用した善導大師の文を「証巻」「真巻」で引文されておられる。
帰去来 魔郷不可停
曠劫来流転 六道尽皆逕
到処無余楽 唯聞愁歎声
畢此生平後 入彼涅槃城
帰去来(イザイナム)、魔郷には停まるべからず。
曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。
到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎「生死」の声を聞く。
この生平を畢(お)へてのち、かの涅槃の城に入らん
この文の「愁歎」を御開山は「生死」として引文(原典版)されておられるのだが、現代の長生きという世相にてらせば、愁歎や生死の語は「老愁」とでも表現できるかもである。
ともあれ、河野氏の「アホかと思ひ寝るまへも思ふ」という句は、法然聖人が寝る前に
阿弥陀仏と十こゑとなへてまとろまん
なかきねむりになりもこそすれ (『全書』和語灯録p.685)
と詠われた意(こころ)を想起せしめるのであった。我々が口になずんだ「正信念仏偈」の、
本願名号正定業(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である)
であった。いのち終わって往くべき浄土を持たない人は可哀想である。
「美しく齢を取りたい」という方には申し訳ないのだが、やがて訪れる死を考察しないならば「アホかと思ひ寝るまへも思ふ」である。
死ぬことが許容されない現代社会では、痴呆になってベッドの上で胃婁を処されて生物としての「生」を受け入れる選択肢しかないのだが、生をリセットして新しい生がめぐまれるという
つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
という、往相・還相を説く、浄土真宗のご法義の上でいえば、死は新しいわたくしの再生であり、還相はいのちを繋ぐリレーであった。往相・還相という概念は、そのような意味によって理解されるべきなのだが、存在のゼロポイントという基底から、浄土教を考察されたのが御開山親鸞聖人であった。
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