御開山は『無量寿経』の罪福を説く胎化段を、異訳の『無量寿如来会』の文を引文されて、
みづからの善根において信を生ずることあたはず。 (*)
と、されておられました。
高森親鸞会では縦の線とか横の線とか、浄土真宗をプロセスとして捉えていますが、ご開山のお勧めは第十八願に誓ってある、
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。(現代語)
の、阿弥陀仏の正覚と衆生の往生を不二とされたのでした。
真偽未詳といふか、ほとんど仮託した句ですが、林遊のように口の悪い一休宗純が、
極楽に さのみ用事はなけれども
弥陀を助けに 往かにゃなるまい
と詠ったといふ意も「若不生者 不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」の文からでした。
「業は願によりて転ず」という語が『往生要集』にありますが、「絶対の幸福を求める」という幸福は、一人の幸福はみんなの為に、みんなの幸福は私の為にという意かもです。 (*)
ともあれ高森親鸞会の宿善論の「信心獲得」の呪縛から逃れられてのはよかったですね。
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