過去にもブログで記したのだが、梯實圓和上は「阿弥陀さまの大悲」について、
法然聖人において、回心以前の大悲観と、回心以後の大悲観は異なるのでしょうか。
そうですね、やはり異なっているのでしょう。それは自分自身が大悲に包まれて、そのなかで味わっていることと、大悲を外から味わっているというのとのと違いがあります。
どこが違うのかといいますと、お慈悲は私が知るものではなくして、私はお慈悲に見護られているということが味わえるようになっています。私は仏さまを知るものであり、お慈悲を知るものであると考えている間は、わからないことが苦になります。
しかし、私は知るものではなくて、常に知られているのものであり見護られているものであると気付けば、知らないことが苦にならず、忘れたことも苦にならず、また聞かせていただき、知らせていただくことを楽しむようになります。
こういった違いが出てくるかと思います。このことはとても大事なことでございますので、よく味わっていただきたいと思います。→「阿弥陀さまの大悲」
と仰っていた。浄土真宗は、我と汝の対応関係ではなく「ニグルヲオワエトル」という摂取不捨の逆対応のご法義である。
というわけで、wikiarcの「仏願の生起本末」の仏願の生起が判りにくいので深川倫雄和上からお聞きした話を追加してみた。
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