徳大寺の唯蓮坊

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蓮如さんの『御一代記聞書』に、

一 徳大寺の唯蓮坊、摂取不捨のことわりをしりたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、夢想に、阿弥陀のいまの人の袖をとらへたまふに、にげけれどもしかととらへてはなしたまはず。摂取といふは、にぐるものをとらへておきたまふやうなることと、ここにて思ひつきたり。これを引き言に仰せられ候ふ。(聞書P.1297)

とあるのだが、徳大寺の唯蓮坊という一段が判らなかったのだが、ネットは便利なもので唯蓮坊のエピソードを発見。

で、暇なのでwikiarcに記述してみた

→「徳大寺の唯蓮坊

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古今楷定

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好奇心の無い者は、たとえ若者であっても老人であり、好奇心のある者はたとえ百歳であっても若者である、というそうだが、「古今楷定」という語を見かけたので好奇心から私見をwikiarcにUPしてみた。

鎌倉時代に生を享けられた御開山は、80過ぎてもなお好奇心を失わずに著述をされておられるのだが、こういう人にとっては老いは忘れ去られているのだろうな。
ある意味では、やがて実現する「無量光明土」という浄土を持つものは、摂取不捨という言(ことば)が実感として感じられるのであろう。ありがたいこっちゃ。

→[古今楷定]

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二種深信

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若い頃には、家のじいさんやばあさんが、ご信心は若い頃に貰え貰えと煩かった。
『御一代記聞書』(63)の、

一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。 p.1252

の意であろう。
根が単純なので「信心正因」の語に幻惑され、大谷派の機づのりの機の深信が自覚の信であると錯誤して、罪の深いことを知らしてもらうのが浄土真宗の信仰であると思っていたものである。後で知ったのだが御開山は『愚禿鈔』で七深信を挙げられ、

第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。p.522

と、機の深信単独では自利(自力)の信であるとせられいた。大谷派の責任者出て来い(笑
ともあれ不惑を過ぎてから、本願寺派の和上さま方の法筵に座すことになったのだが、自力の拵えた自覚の信を抛り投げて、なんまんだぶのご法義を知らしてもらったのはありがたいことであった。
で、御恩報謝の真似事としてネットであちこち書き散らしているのだが、wikiarcの「二種深信」の項に少しく追記してみた。

「二種深信」

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浄土真宗の特長

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「法然聖人と御開山の相違について」という問いを受けたので、梯實圓和上の聖典セミナーの一段をUPしたことがある。
同文中で梯和上は、17の箇条書きで御開山の『教行証文類』撰述の意義を示しておられる。その意味を該当する文や項目へのリンクを作成してみた。
坊さんと違って、かっての林遊のように門徒は教義概念を示す名目の意味が理解しづらいと思ふので、各項にお節介だがリンクしてみた。

ともあれ理論と現象ということがいわれるのだが、理論は知らなくても本願の仰せのとおりに、虚心に〔なんまんだぶ〕を称えている者が「真実の信心はかならず名号を具す。」であり、「如彼名義欲如実修行相応故(かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲(おも)ふがゆゑに)」の実践であった。ありがたいこっちゃ。

浄土真宗の特長

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