信罪福心

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信罪福心について、wikiarcに追記した。

罪福心について、御開山は「真仏土文類」の末尾で、

 まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。 (真巻 P.373)

とされておられる。この真仮とは、自業自得 (信罪福心) という自利 (自力) の法門と、本願力回向の「誓願一仏乗」の利他力 (他力) の法門の綱格の違いをいふ。この利他力のあらゆる衆生を浄土へ運載する大乗の意を『御消息』では「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(消息 P.737) とされたのであった。

善人悪人を平等に浄土に往生せしめ「済度」するという真宗の法義 (仏法の教義) は人間の思議の常識を超えているから、不可思議の法なのであった。なんまんだぶを称えて「念仏成仏」を目指すご法義であった。

→「罪福]

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

浄土真宗における信の歴史

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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七祖の補注をUPしてみた。
七祖のそれぞれの解釈が窺えて面白い。一般に浄土真宗では「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説(道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべし)」とあるので、七祖は御開山と同一の事を述べたとされるのだが、それでは七祖に失礼であろうと思ふ。
祖師方は、それぞれがおかれた時代時代に応じて浄土教を顕開して下さったのであった。

で、突然『西方指南抄」の「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」の引用が出て来たので、リンクと現代語を付してみた。
『和語灯録』や『西方指南抄』は、お説教のネタの宝庫だと思ふので、もっと真宗の坊さんは読むべきかもである。知らんけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「七祖-補註7」

願作仏心、度衆生心

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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wikiarcの願作仏心の項に追記。

明恵高弁は『選択集』を読み、菩提心を撥去する法然は畜生である、悪魔であるとまで罵倒した。それでは汝(明恵自身)は真正の菩提心を発しているのかと自問し、菩提心は発せていないと正直に答えていた。しかし菩提心は発せていないが、法然はわたしが目標としている仏道の正因である菩提心を撥去したことが許せないのだとしていた。
御開山は、

自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき (正像 P.603)

と、明恵のいう自力の菩提心の発しがたきことを示し、本願力回向の「大信」は願作仏心・度衆生心の浄土の菩提心であるとされたのであろう。

摧邪輪 浄土宗全書 第8巻750P

問曰 爾者汝有菩提心乎。

問うて曰く、爾れば汝に菩提心ありや。

答 設雖無之 如此知 是正見也。

答う。設い之なしと雖も、此の如く知る、是れ正見なり。

既有正見者 欣可欣 厭可厭。

既に正見ある者は、欣うべきを欣い、厭うべきを厭う。

知菩提心是佛道正因故 念念愛樂之。

菩提心は是れ仏道の正因と知る故に、念念に之を愛楽す。

知汝如所立是邪道故 念念厭惡之 終必可增長菩提心 成無上佛果。

汝が所立は是れ邪道なりと知る故に、念念に之を厭悪し、終に必ず菩提心を増長し無上の仏果を成ずべし。

汝厭惡菩提心 佛種既朽敗。

汝の菩提心を厭悪する、仏種既に朽敗せり。

妙果依何得成。

妙果何に依りてか成ずるを得んや。

况又有相發心 行相麤顯。

況んや又有相の発心、行相麁顕なり。

隨分愛樂佛境者何必非菩菩心乎。

随分に仏境を愛楽するは、何ぞ必ず菩提心にあらずや。

→「願作仏心

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

従果還因 従果降因

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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某所で還相について法座での坊さんの応答を、『浄土論註』の「無生の生」と「四種の菩薩荘厳」に依って語っていた。
雪降って暇なので少しく考察してみた。

まず往生ということだが、『論註』では、往(ゆ)いて生まれるというなら「生」は迷いの根本であるのに、何故「往生」と「生」というのか、という問いを出し(論註 P.123) 、それに対して、

この疑を釈せんがために、このゆゑにかの浄土の荘厳功徳成就を観ず。かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざることを明かすなり。なにをもつてこれをいふとならば、それ法性は清浄にして畢竟無生なり。生といふはこれ得生のひとの情なるのみ。(論註 P.123)

と、浄土に生まれるという「生」の意味は「無生の生」であるとされた。
無生の生

しかし、このような「無生の生」が理解できるのは優れた人(上品生)だけであって凡夫(下下品の人)には不可能ではないかと、問い(論註 P.125)

かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。(論註 P.126)

とされ、有名な「氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)」の譬えで、実の生ありと生にとらわれる者(見生)であっても、

また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。 (論註 P.126)

と、せられていた。ようするに無上宝珠の名号である、なんまんだぶを称えて、いらぬ心配をするなであった(笑
→「無上宝珠

で、往生しての「還相」であるが、これも『論註』の菩薩の四種功徳成就で坊さんが答えていたようである。

『浄土論』では、浄土の荘厳を国土17種、仏8種、菩薩4種の三種の荘厳として説かれておりこれを「三厳二十九種荘厳」といふ。
→「三種の荘厳

このうちの菩薩荘厳四種には名称がないので後世に名を付してそれぞれ、不動遍至功徳、時遍至功徳、無余供養功徳、遍示三法功徳といふ。(論註 P.88)

この菩薩四種荘厳は、浄土の菩薩の衆生教化活動であり、『論註』では八地以上の法性生身の菩薩の活動であるといわれていた。以上はリンク先の『論註』の文を読めば判る。なお菩薩荘厳も「仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる」と仏願の生起から説かれていることに留意。
→八地=「法性生身の菩薩

さて「従果降因」なのだが、御開山は『論註』と少しく違うのでややこしい。『論註』では浄土の菩薩の利他のはたらきを還相というのだが、御開山は仏果を得た仏が因に降って菩薩の相を示現しての救済活動を「還相」とみておられた。これを「従果降因」とも「従果還因」ともいふ。
→「従果降因

もちろん『論註』の菩薩四種荘厳を「従果降因」の相とみることも可能だが、往生即成仏という御開山の立場からは、仏果を獲たものの活動相を「還相」といわれたのであった。
→「還相

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恩の思想

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fbより。

浄土真宗では「信心正因」「称名報恩」と、報恩ということがいわれるのだが、この「恩」という思想が判りにくくなっているので、なんまんだぶを称えることが報謝であるということが領解しにくくなっているのであろう。

で、暇なのでwikiarcの「恩」の項に追記してみた。随時更新中だけど(笑

→「

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如来大悲の恩徳は

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我々が口になずんだ、

(59)
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

というご和讃は、御開山さんが『尊号真像銘文』法印聖覚和尚の銘文で、

大師聖人(源空)の御をしへの恩おもくふかきことをおもひしるべしとなり。 「粉骨可報之摧身可謝之」といふは、大師聖人の御をしへの恩徳のおもきことをしりて、骨を粉にしても報ずべしとなり、身を摧きても恩徳を報ふべしとなり。よくよくこの和尚(聖覚)のこのをしへを御覧じしるべしと。

の法然聖人の恩徳を和讃されたものである。御開山は法然聖人を阿弥陀仏の化現であるとみられていた。子供の頃には、身を粉にするのも骨を砕くのも嫌だよと、リアルに思ふていて反発したこともあった(笑
ともあれ、『尊号真像銘文』の漢文部分にはこの「粉骨可報之摧身可謝之」を示す語がないので略抄されたのであろうと思っていた。
で、貧乏であまり本は買えないのだが『浄土真宗聖典全書』を買って「聖覚法印表白文」の全文をみて納得したものであった(笑

愚昧な門徒がお聖教を読もうとすると非難中傷する坊さんが多いのだが、蓮如さのお示しには、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

とあるので、暇つぶしにお聖教を披くことではあった。ありがたいこっちゃな。

→「聖覚法印表白文

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聞信

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本山の高等遊民は、次々と新しい言葉を生みだす。

しかし門徒は消化不良になっているのでワケが判らん。
御開山の御同行・御同朋を「門信徒」と呼び囲い込む言葉もその一なのだが、はたして「聞信」という言葉を浄土真宗の坊さんが理解しているのかと思い立ち、「聞信」という言葉を考察してみた。

ともあれ、こんな事ばかり書いているから、そのうちに「安芸の蓮崇」のように破門になるかも(笑

「聞信」

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御開山の三哉

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御開山は、日本人に「何をよろこび、何をかなしむべきか」を教えて下さった方であるといわれる。ほとんど自らの感情を語ることのなかった御開山には、三哉(さんかな・さんさい)という文がある。

誠哉 摂取不捨真言 超世希有正法 聞思莫遅慮。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序 P.132)

爰愚禿釈親鸞 慶哉 西蕃・月支聖典 東夏・日域師釈 難遇 今得遇 難聞已得聞。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。(総序 P.132)

御開山は、自らには真実はない、ということを真実とされた方であった。それ故に真実の教えに出遇われたことを「誠哉」「慶哉」といわれたのであろう。
その「誠なるかな」と「慶ばしいかな」を聞思して、

誠知。悲哉愚禿鸞 沈没於愛欲広海 迷惑於名利太山 不喜入定聚之数。

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(信巻 P.266)

と「悲しきかな愚禿鸞」と述懐されておられた。
それはまた「誠哉」という真実に出合いながら真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。真実に出遇いながら真実たり得ない自己の慚愧であり、煩悩にまみれた俗人にありながら真実の光に照し出され摂取された自身を感佩する語であった。
浄土真宗のご法義は悲喜交交(悲喜こもごも)と、喜びと悲嘆が交差する「二種深信」のご法義だといわれるが、この意を大谷派の金子大榮師は、

人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らないものだ。(*)

と、仰っていた。

→[僧にあらず俗にあらず

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自力他力についての異説

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稲城選恵和上から、杉和上は浄土真宗の布教使さんの説教を聴かれて、

西山浄土宗のお説教を確かに拝聴いたしました。

と、皮肉っておられたということを聴いたことがある。
浄土真宗では三業惑乱以来、衆生の側の意業の信心を否定するあまり無安心に陥っている面もある。いわゆる往生正覚機法一体の「十劫安心」をご当流のご信心だと誤解している僧俗が多いということであろう。
いわゆる、ひらがな語での「いのち」を強調し、御開山が示された願作仏心、度衆生心という仏道を領解できない仏法の世俗化の罠に嵌っているのかもである。
世俗化とは聖なるものを俗化するのであって、俗化した真宗には衆生を済度する力はないということが、真宗のご法義の衰退の一端を招いているのであろう。

御開山の示された浄土真宗は、

しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。p.371

という、往生成仏の仏のさとりを開くご法義なのだが、現世の「いのち」の語に拘泥し往くべき浄土をもたない者には難中之難であろう。
と、いうわけで、法然門下の異流の一端を示す「法然聖人の他力思想」の一段をUPしてみた。

→「法然聖人の他力思想

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