御開山は、日本人に「何をよろこび、何をかなしむべきか」を教えて下さった方であるといわれる。ほとんど自らの感情を語ることのなかった御開山には、三哉(さんかな・さんさい)という文がある。
誠哉 摂取不捨真言 超世希有正法 聞思莫遅慮。
誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序 P.132)
爰愚禿釈親鸞 慶哉 西蕃・月支聖典 東夏・日域師釈 難遇 今得遇 難聞已得聞。
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。(総序 P.132)
御開山は、自らには真実はない、ということを真実とされた方であった。それ故に真実の教えに出遇われたことを「誠哉」「慶哉」といわれたのであろう。
その「誠なるかな」と「慶ばしいかな」を聞思して、
誠知。悲哉愚禿鸞 沈没於愛欲広海 迷惑於名利太山 不喜入定聚之数。
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(信巻 P.266)
と「悲しきかな愚禿鸞」と述懐されておられた。
それはまた「誠哉」という真実に出合いながら真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。真実に出遇いながら真実たり得ない自己の慚愧であり、煩悩にまみれた俗人にありながら真実の光に照し出され摂取された自身を感佩する語であった。
浄土真宗のご法義は悲喜交交(悲喜こもごも)と、喜びと悲嘆が交差する「二種深信」のご法義だといわれるが、この意を大谷派の金子大榮師は、
人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らないものだ。(*)
と、仰っていた。
→[僧にあらず俗にあらず」
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