某所で還相について法座での坊さんの応答を、『浄土論註』の「無生の生」と「四種の菩薩荘厳」に依って語っていた。
雪降って暇なので少しく考察してみた。
まず往生ということだが、『論註』では、往(ゆ)いて生まれるというなら「生」は迷いの根本であるのに、何故「往生」と「生」というのか、という問いを出し(論註 P.123) 、それに対して、
と、浄土に生まれるという「生」の意味は「無生の生」であるとされた。
→無生の生
しかし、このような「無生の生」が理解できるのは優れた人(上品生)だけであって凡夫(下下品の人)には不可能ではないかと、問い(論註 P.125)
とされ、有名な「氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)」の譬えで、実の生ありと生にとらわれる者(見生)であっても、
と、せられていた。ようするに無上宝珠の名号である、なんまんだぶを称えて、いらぬ心配をするなであった(笑
→「無上宝珠」
で、往生しての「還相」であるが、これも『論註』の菩薩の四種功徳成就で坊さんが答えていたようである。
『浄土論』では、浄土の荘厳を国土17種、仏8種、菩薩4種の三種の荘厳として説かれておりこれを「三厳二十九種荘厳」といふ。
→「三種の荘厳」
このうちの菩薩荘厳四種には名称がないので後世に名を付してそれぞれ、不動遍至功徳、時遍至功徳、無余供養功徳、遍示三法功徳といふ。(論註 P.88)
この菩薩四種荘厳は、浄土の菩薩の衆生教化活動であり、『論註』では八地以上の法性生身の菩薩の活動であるといわれていた。以上はリンク先の『論註』の文を読めば判る。なお菩薩荘厳も「仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる」と仏願の生起から説かれていることに留意。
→八地=「法性生身の菩薩」
さて「従果降因」なのだが、御開山は『論註』と少しく違うのでややこしい。『論註』では浄土の菩薩の利他のはたらきを還相というのだが、御開山は仏果を得た仏が因に降って菩薩の相を示現しての救済活動を「還相」とみておられた。これを「従果降因」とも「従果還因」ともいふ。
→「従果降因」
もちろん『論註』の菩薩四種荘厳を「従果降因」の相とみることも可能だが、往生即成仏という御開山の立場からは、仏果を獲たものの活動相を「還相」といわれたのであった。
→「還相」
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ