名号について哲学的考察をされた大峯顕師(1929-2018)は、
たとえば、お説教で、名号のおいわれを聞くといいますけれど、おいわれを聞いただけでは助からんので名号そのものを聞かなくちゃならない。名号のおいわれを聞くという考え方は従来の言語論でありまして、その場合には言葉はまだ符合〔符号or記号か?〕もしくは概念にとどまっている。「南無阿弥陀仏」の裏に仏の本願があって、それに救われるというだけでは、名号そのものに救われるということは出てこない。
名号のいわれを聴くということだと、名号とそして名前にこもっている事柄とが別々のものになってしまう。いわれというものは本来名号をはなれてはないわけで、その両方が一体、名体不ニと言葉では一応いわれておりますが、そういう名体不二ということが本当に理解されているかどうかと思うわけです。
と、浄土真宗の術語(テクニカルターム)である「名体不二」について論じられていた。御開山は六字釈で南無阿弥陀仏の「南無」とは本願招喚の勅命とされていた。それは声として称えられ聞える〔なんまんだぶ〕という「名号」として顕現する阿弥陀如来の呼び声であった。
それは元照律師の『弥陀経義』を引いて「我が弥陀は〔可聞可称の口に称えられる語業としての、なんまんだぶという〕名をもつて物を接したまふ」の乃至十念の称えられる仏であった。法然聖人の示された「選択本願念仏」という、阿弥陀仏が選択された〔なんまんだぶ〕を称える念仏の仏法が、御開山の示された「名体不二」の仏法であった。ありがたいこっちゃ。
阿弥陀さまを背にして、演壇で口角泡を飛ばしてありもしない現代風の自覚としての信心を説く自称としての坊さんは、いま少しく、垂名示形のなんまんだぶを称え聞かしめるべきであろうと思っていたりもする。知らんけど。
と、いうわけでwikiarcの「名体不二」の項に追記してみた。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
関連 →「親鸞における「言葉」