仏教における「生死出ずべき道」である後世を、
ただ後世のことは、よき人にもあしきにも、おなじやうに生死出づべき道をば、ただ一すぢに仰せられ候ひしを、うけたまはりさだめて候ひしかば、「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも、世々生々にも迷ひければこそありけめとまで思ひまゐらする身なれば」と、やうやうに人の申し候ひしときも仰せ候ひしなり。(*)
と、領解されたのが御開山であった。
これを晩年の『歎異抄』では「往生極楽のみち」と言われていた。
その往生して仏陀のさとりを得る御開山と意を同じくする者を「門徒」と呼ばれたのであった。教位に立たず同じ群萌として阿弥陀仏の〔なんまんだぶ〕を称えて往生する一文不知の立場に立たれたのが御開山であった。
無茶苦茶に難しい『教行証文類』という信心の形而学ともいえる著作を残された御開山だが、その本意をは〔なんまんだぶ〕を称えて西方仏国に往生して仏陀と成るご法義を顕彰する為であった。ありがたいこっちゃ。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→「門徒」
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