fbで井上敬信さんが『慕帰絵詞』をUPして下さったのでwikiarcに転載してみた。→「慕帰絵詞」
で、「絵詞」とあるので、国立国会図書館デジタルコレクションから画像を引用してみた。
ところで浄土真宗を名乗る「高森親鸞会」では、
『どちらがウソか』(高森親鸞会篇)を出版して次のごとく論難している。
もし、本願寺の言うように、親鸞聖人や蓮如上人が、名号でもよし、絵像でもよし、木像でもよし、一つに固執してはいけないと教えられたのが正しいとすれば、『改邪砂』に「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず、必ず名号を本尊とせられた」と書かれてありますが、覚如上人はウソを書かれたことになります。→「真宗の本尊について」
と、本願寺の木像・絵像の安置を非難し六字の名号こそ本尊であると攻撃していた。しかして覚如上人の子慈俊(従覚)撰述による『慕帰絵詞』の絵によれば、病中の覚如上人を描いたところには、三具足(仏前に供える、華瓶・香炉・燭台)を具して阿弥陀如来の画像が安置してある。
彼の会員は、どれだけ言葉で示しても理解できないのだが、ビジュアルな画像で示せば、覚如上人の著述(改邪鈔)に依拠して仏壇から絵像の阿弥陀仏を降ろし高森親鸞会からレンタルのコピー&ペーストの本尊に入れ替えた愚行に気が付くかもである。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
« Prev:約束 どこにそんなことを仰ってるんだ?:Next »
2019年4月15日 8:49 PM
林遊先生、こんばんは。
以前に
>先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし、といいますから先生はよして下さい(笑
と仰っておられましたね。私より先にお生まれになられ、様々な経験を数多く体験され教えて下さる方を「人生の先輩」と感じますので先を生きている方の意味で「先生」とお敬いいたします。後に生まれ生きる私なら後生(こうせい)の者となります。もしお気に召さぬ際には改めます。
先生がご苦労下さっているwiriarcで常々拝見させていただき大変お世話になっております。有難うございます。時折、wikiarcが遮断され接続不可になる時がありますと心配性の自分で、もしかして閉鎖したのでは?と思ってしまいます。メンテナンスで遮断されているだけなのでしょうか? 大いに活用させて頂いており、大変貴重に感じるこのサイトの維持と運営が今後も順調であります事を願います。また、管理されておる先生のご健康がこれからも末永く健やかである事を願っております。
慕帰絵詞で明解に住立空中尊のご絵像御本尊が描かれておりますね。覚如上人在世で決して名号本尊ではなかった事だけは確かのようです。以前、親鸞会の講座?勉強会?があり、興味があってお邪魔した事がありますが最初から最後まで自分以外の参加者全員(たぶん会員か)が一度も声に出して称名念仏しなかったのが強く印象に残っております。その場所に12、3人いてもお念仏を称えていたのは私一人だけで違和感をおぼえました。色々調べるとその会ではどうも称名念仏するのは信心獲得の証しのようで、未信心の者は声に出すような称名念仏はすべきではない(この点でも本願寺派など既存教団とは異なる考え方)と考えているようです。私は「声となって我が身に到り届いた阿弥陀仏」が私の口からお念仏となって飛び出ていくと聞きそう感じているので、彼らはそれを押し留めているようで不思議に思えました。
本尊論ですと、本願寺派三大法論の「明和の法論」でも論争になりましたね。