仏智の不思議という不思議の語を、まるでオカルトのように解釈している人がいるというFBの投稿を見て、古いページからサルベージ。
報恩講と三人の婆ちゃん
あるお寺での報恩講の時、夜の御法座まで時間があるので七・八人の同行が 本堂で雑談をしている所へ当時八十八才の老院がおいでになり「今日は御開山様の報恩講や、御法(おみのり)の話をしてるかや」と言われました。
早速熱心な三人の婆ちゃんが老院を囲んで、ご示談ということになりました ので小生もお話を伺わさせて頂きました。
A婆「先生、私等ここで今まで話していたんですけど、おかげさまでやっと お念仏が分からせて頂きました。毎日有り難くて、有り難くてお念仏が 出止みません」
老院「ほほう、そやけどあんまりこっちが、阿弥陀様を使わんこっちゃ。 阿弥陀様が疲れるさけな」
B婆「先生そういう話ではないがです。私はこの間、御内仏でお勤めをしてい たら、御内仏の中が紫色にパーッと光りまして、ココヤと思ったんです」
老院「うん、御内仏が光る時もあるやろな、光らん時もあるやろな。こっちは そんな心配はせんこっちゃ」
C婆「いやいや先生違います。私はこの間畑仕事をしていまして、縄が少し足 らん用になったがです。その時に後ろを見よという声がしましてヒョイと 後ろを見ると丁度間に合う縄があったがです。ココヤと思いまして畑に座 りこんで涙流して喜んだがやです」
老院「そやろな、縄が有る時もあるやろし、ない時もあるやろな。みんな 阿弥陀様のお仕事や、いらん心配せんこっちゃ」
かくて三人の婆ちゃんの堂々めぐりが続いていきましたが、翌朝食事の時には あれほど喜んでいた三人の婆ちゃん達は、何かしら物憂い顔で食事をとっており ました。
婆ちゃん達は小生に信ずるという事を改めて考えさせて下さった善知 識でありました。
阿弥陀様の御本願があって、それを私が信じて救われる浄土真宗ではありませ ん。
「入れ物がない、両手でうける」という句を見たことがありますが、小生の心 には何処を探しても、信心を入れる入れ物がありません。
心に入れ物がないから「なんまんだ仏」と称えられ、受け取るだけの御信心を 仕上げて下さったのでしょうね。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ