20代の頃、会社勤めをしていた時に、そこの社長が面白いことを言っていた。
そもそも、人間が考察の対象にできる人は、二十人だから、それをこえたら必然的に分派するもんじゃ。会社の部・課別制もこれによっているんじゃ、という言葉になるほどと将棋の駒の数を思い浮かべた。
将棋の駒が百個ほどあったら、脳内シナプスの発火現象も混乱するのではなかろうかと、後日思ったものである。
というわけで、フレンド申請が多数なのだが、林遊が論じている内容は、ほぼ一般的には理解不能だと思われるので、フレンド申請は無視している。すまんこっちゃの。
もし、仏教や浄土真宗ということに関心があるなら、
http://www.wikidharma.org/
や
http://labo.wikidharma.org/
を、参照されたし。
生きることの意味や死ぬことの意義を説くのが宗教言語の世界なのだが、既存の言語と違う言語世界が、もしかしたら見えるかもしれないのであった。どうでもいいけど。
禅門では、不立文字として、言語を否定する面があるのだが、言葉を使いながら、その言葉を超越しているのが、義なきを義とすという世界であった。
それは、虚心に、なんまんだぶを称える者の前に顕現する世界であったのである。こればっかりは遇わんとワカラン。
いわゆる、わたくしという存在の意味が信知できることであった、やったね。
特に、浄土教では、生きることに意味があるように、死ぬことにも意味もあるのですよと告げるのである。現代人の妄想←(仏教語)するような、死は滅びであるという思想と対決してきたのが、浄土を真実とする浄土真宗のご法義であった。これを「後生の一大事」と蓮如さんは説かれたのであった。生きる意味も知らず、死んでいくことの意義も知らない当時の仏教から疎外されていた門徒にとっては、これこそウララ←(我々という越前弁)が、生も死も託していける、ほんまもんの仏教だと狂喜乱舞したのであろう。いわゆる「大乗の至極」である。
頭の賢い真宗坊さんは、これが解らんので困ったものだ。なんまんだぶせぇよ(笑
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ