読解力

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
0

読解力の低下といふことで、お聖教を読むことの意義を想起した。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52905290T01C19A2CC1000/

お聖教を読む時に、いつも思ふのだが、日本仏教は漢訳経典の上で展開されているので辞書を引きながら読まないと訳が判らなくなる。
まして、日本語は漢語と、漢語を「テニヲハ」で繋ぐ膠着語なので、意味の判らない単語があっても、漢語を脳内で適当に日本語化して何となく分ったつもりになるのであろう。
欧米では言葉の原義を考察するときはラテン語にかえして推察するそうだが、日本語における漢字語は、明治期に欧米語を日本語化する為に、漢字による造語法に依ったのであった。その為、社会(social)とか経済(economy)とか科学(science)という言葉がうまれたり、宗教(religion)のように既存の言葉の上に新しい意味を付加したのであった。
特に仏教語の場合は、市販の辞書を引けば語句の説明に「仏語」という項目があるように、既存の世俗の言葉の意味と違う意味がある。例:無学

ともあれ、浄土真宗のご法義の場合は、伝統的な通仏教の言葉を使いながら、全く違う精神世界を表現するのであった。それは、現実的な社会(妄想だけど)に於いて自己を完成しようという宗教に対して、真実の自己の完成は死をドリブン(契機)とする往生であるとするのが浄土真宗のご法義であった。
それが、生きることに意味があるように、死ぬることにも意義がある、と、往生浄土に於いて自己の完成を目指す仏法であった。アメリカ文化は、現実主義であり、死の無い文化ともいわれるようだが、戦争(大東亜戦争)に負けてから、浄土思想は弊履のごとく捨てられ、現今の浄土教は現世を説く「いのち教」や「こころ教」に成り下がったのは、困ったものである。
馬鹿は死ななきゃ治らないといふのだが、死ななければ自己完成が出来ないという、煩悩に纏わられて呻吟している林遊に、なんまんだぶと称えられ聞えるのが「垂名示形」の阿弥陀仏という仏陀であった。

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ (浄土 P.569)

と、御開山が讃詠されたように、なんまんだぶ(念仏)を称えて仏になる法義が真宗であった。頭の賢い人はこれが解らんから「読解力」が無いのです(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

➡ 垂名示形