梯實圓和上は「教行証文類のこころ」といふ講義で、
人間から言っちゃいけない、ただ仏様からだけ仰る。如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉。私の方から言ったら嘘になる。仏様が仰ることを有り難く頂戴する、そういう言葉っていうものがありましてね。これを間違えないようにしないとね。仏様から仰る言葉を、こちら側から言うと嘘になるという言葉はいくらでもあります。どんな愚かな者でも助けるぞ、という言葉は仏様の言葉ですよ。どんな愚かな者でも助けて下さるんですなぁ、と私の方が言うたら、お前が言うな!。ということで、お前が言うな、お前は有り難く頂くだけなんだ、お前から言うな。
これから悪人正機などという、おそろしく過激な言葉が出て参りますが、あの悪人正機などという過激な言葉なんかもね、あれだって、言い場所を間違ったら偽物になるだろうな。だから難しいんです言葉は。誰が言うてもええちゅうもんと違いますで。
例えばほめ言葉でもそうでしょ。お釈迦さまが、阿弥陀さまが誉めてくださる、「この人を分陀利華と名づく」と誉めてくださる。お釈迦さまは「私の親友」であるとまで仰って下さる。あるいは「真の仏弟子」として呼んでくださる。みなあれ仏様の方から仰る言葉ですよ。
わしの方からね、私は阿弥陀さまと、仏様と親友でござんすな、と言ったらお前から言うな!(笑)。誉め言葉というのは聞いて喜ぶ言葉であって、こっちから言うたら嘘になります。→「教行証文類のこころ」
と、仰っておられた。
御開山の著述はほとんどが約仏(仏の救済を仏の側から顕すこと)で表現されておられる。それは御開山が「聞」の方であったからであろう。その「聞」とは、如来の仰せを仰せのとおり聞くことで、こちら側の頂き方を用いないような聞であった。それを和上は、如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉、仏様が仰ることを有り難く頂戴するだけと仰っていた。
機を見れば どこをおさえて 正定聚 法にむかえば うれし恥ずかし
といふ句を聞いたことがあるが、わが機を眺めてみれば正定聚などとは決して言えない。しかし法に向かえば汝はこれ正定聚の者よ、と仰って下さるのであった。聞法とは法を聞くことを慶ぶことであった。
聞いた法が聞いたままに作為を用いず心に印現しているような聞を「聞即信」とも「勅命の他に領解なし」ともいふのである。ありがたいことである。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ