勅命の他に領解なし

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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梯實圓和上は「教行証文類のこころ」といふ講義で、

人間から言っちゃいけない、ただ仏様からだけ仰る。如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉。私の方から言ったら嘘になる。仏様が仰ることを有り難く頂戴する、そういう言葉っていうものがありましてね。これを間違えないようにしないとね。仏様から仰る言葉を、こちら側から言うと嘘になるという言葉はいくらでもあります。どんな愚かな者でも助けるぞ、という言葉は仏様の言葉ですよ。どんな愚かな者でも助けて下さるんですなぁ、と私の方が言うたら、お前が言うな!。ということで、お前が言うな、お前は有り難く頂くだけなんだ、お前から言うな。
これから悪人正機などという、おそろしく過激な言葉が出て参りますが、あの悪人正機などという過激な言葉なんかもね、あれだって、言い場所を間違ったら偽物になるだろうな。だから難しいんです言葉は。誰が言うてもええちゅうもんと違いますで。
例えばほめ言葉でもそうでしょ。お釈迦さまが、阿弥陀さまが誉めてくださる、「この人を分陀利華と名づく」と誉めてくださる。お釈迦さまは「私の親友」であるとまで仰って下さる。あるいは「真の仏弟子」として呼んでくださる。みなあれ仏様の方から仰る言葉ですよ。
わしの方からね、私は阿弥陀さまと、仏様と親友でござんすな、と言ったらお前から言うな!(笑)。誉め言葉というのは聞いて喜ぶ言葉であって、こっちから言うたら嘘になります。→「教行証文類のこころ」

と、仰っておられた。
御開山の著述はほとんどが約仏(仏の救済を仏の側から顕すこと)で表現されておられる。それは御開山が「聞」の方であったからであろう。その「聞」とは、如来の仰せを仰せのとおり聞くことで、こちら側の頂き方を用いないような聞であった。それを和上は、如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉、仏様が仰ることを有り難く頂戴するだけと仰っていた。

機を見れば どこをおさえて 正定聚 法にむかえば うれし恥ずかし

といふ句を聞いたことがあるが、わが機を眺めてみれば正定聚などとは決して言えない。しかし法に向かえば汝はこれ正定聚の者よ、と仰って下さるのであった。聞法とは法を聞くことを慶ぶことであった。
聞いた法が聞いたままに作為を用いず心に印現しているような聞を「聞即信」とも「勅命の他に領解なし」ともいふのである。ありがたいことである。

➡「トーク:聞即信」

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真宗聖典検索 Web site

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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大谷派の聖典は、御開山の御自釈が漢文併記なので便利だった。
ちなみに、このサイトは画像で聖典を表示しルビがあるので便利である。
聖典への画像へのリンクも可能なので、ネットで引用文への出拠を示す場合に有用だと思ふ。
ただ、布教使が法話の時に、目の前の聴衆がスマートフォンを眺めてニヤニヤすると、ちょっと自分の内面でのお聖教理解に突っ込まれた気分になるかもではある(笑

ともあれ、冷凍保存されていたお聖教をネット上で公開することは、新しい真宗門徒を獲得する手段になるかも知れないと思っていたりする。
「新しい酒は新しい革袋に盛れ」といふキリスト教のことわざがあるのだが、ラジカルなご法義である浄土真宗の教えは、時代を経て新しい革袋に入れることによって、人が生きて死ぬといふ永遠のテーマに答えを提供できるのかもと思っていたりする。
その意味では文書伝道といふ道を切り開いた蓮如さんは、やはり希代のオルガナイザーであった。(言葉の変遷によって、ちょっと制度疲労を起こしている面もあるけど)

そんなこんなで、昔の門徒とは違い、これからの門徒は坊さん程度にはお聖教に親しんでいるので、芸能や話術としての法話は困難になるのかもと思っていたりする どうでもいいけど。

「真宗聖典検索 Web site」
https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/

「画像の例」
https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=152

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