浄土真宗では「念仏者」という言葉が死語になってしまった。
そこで、WikiArcに「念仏者」といふ名目を追記してみた。
→「念仏者」
浄土真宗では、信心を強調するあまり、仏法の「法」の示す「行」である、なんまんだぶと称える「行法」を説かないから衰退したのだろうと思ふ。
信心を強調して説く法話は、ある意味では心の持ち方といふ今はやりの「こころ教」になり果てているのであろう。
また安易に「行」無き「信」を説くから、門徒は、御開山のあかされた「大行」としての〔なんまんだぶ〕の意義を見失っているのであろう。
ともあれ浄土真宗に於いて「念仏者」という語が死語となって久しいのだが、浄土真宗は、御開山が、
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
と、示されたように「念仏成仏」の法義を真宗といふのであった。
なんまんだぶを称えることは、私にわけや意味や用事があるのではなく、阿弥陀如来の方に意義や意図があるのであった。これを本願力回向ともいふのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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2020年2月10日 8:22 AM
>なんまんだぶを称えることは、私にわけや意味や用事があるのではなく、阿弥陀如来の方に意義や意図があるのであった。これを本願力回向ともいふのであった。
誠にありがたいことであるし、これしか頼りにできないものである。
なんまんだぶ なんまんだぶ ありがたい
2020年2月11日 9:52 PM
そうなんですよね。
わたしがなんまんだぶを称えたから救われるのではなく、なんまんだぶを称えた者を摂取(おさめとる)するといふ本願があるから救われるのでした。
風がふくから樹の枝は動くのであって、わたしが動くから大悲の風がふくのではなかったのでした。浄土真宗でいふ自力とはわたしが動いて大悲の風をふかそうとすることをいふのでした。
そもそも論ですが、浄土真宗の信とは、わたしの上にあるけれど、それは賜りたる信心であってわたしのものでは無いのでした。信心至上主義者はこれがワカランのです。
信心とは必ず救うといふ阿弥陀如来のご信心を聞くことであり、これを先人は「勅命のほかに領解なし」といわれたのですね。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E7%96%91%E8%93%8B
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ