浄土真宗の教学は会通(一見、矛盾して入るようにみえる記述を道理に照らしあわせ、一貫した趣意のものとして説明すること)しまくりで、本来の原点を見失っているのではなかろうと思ふことも多い。
ドグマとは、「宗教・宗派における教義のこと」が原義だそうだが、教条主義ともいわれるように「信因称報」説に、がんじがらめになっているのが浄土真宗の教義なのかもと思っていたりする。
林遊は、幼少の頃からの、なんまんだぶ育ちなのだが、『教行証文類』を読み始めて違和感をもったのが、坊さんの説く「称名報恩説」であった。
あんたの親様は、救うてやるからお礼を申せといふのか、と思ったものだ。親の恩といふ思想が残っていた戦前ならば蓮如さんの「信因称報説」は素直に受け容れられていたのであろうが、戦争に負けて、恩といふ思想が崩壊した現代では「如より来生」する、なんまんだぶといふ、往生のさとりを説いた方がよかろうと思ふ。知らんけど。
その意味では、石泉僧叡師の「法相の表裡」といふ考察はおもしろかった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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2020年3月30日 8:38 PM
柴門玄話読ませてもらいました。難しかったです。いつの時代の人も悩むところは同じだなと感じさせてもらいました。教行信証の行信巻、あの部分の解釈は悩ませてくれます。しかし聖人様は行信不離と教えてくださいますから、素直に信順させてもらいます。弥陀の呼び声が聞こえたかどうかは極めて微妙で、ここで引っかかると悩みは増すばかり(われ称えわれ聞くなれど、と味わえば問題ないですが)。なんまんだぶを称えるベクトルが自力から他力へと気づかせてもらう説法に出会えるかどうか、にかかっていると味わっております。なんまんだぶ なんまんだぶ