死の「帰」する処、生の「依」って立つ処

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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fbより転載

不安にさいなまされたコロナ騒動も一段落ついたようだ。
しかして、その不安感の根底には死への不安があるのだが、人はその事実を認めることを嫌がる。

浄土真宗は、浄土を真実とする宗義である。

死ぬでなし 生まれかはれる 浄土ありと

聞けばたのしき 老いの日々なり

という歌を目にしたことがある。
浄土を持たない人には、生の終わりは死であるが、浄土を持つ門徒の我らには、死は「往生」という仏陀のさとりを得る契機(ドリブン)であった。
その浄土へ往生するかしないかの大問題を、本願寺八世の蓮如さんは「後生の一大事」とおっしゃったのであった。
大谷派の金子大栄師は、浄土に帰依するといふことを、

死の帰するところを浄土におく 我々をしてその不安の世の中におりながら今日一日を落着き、今日一日を不安なるがゆえに、却ってそれを介して念仏申させて貰うことによって、有り難いという感覚をおこさせるものは一体何だろうかと、そういうような場として、私には後の世というものがあるのであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。
人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。

と言われていた。

「死の「帰」する処、生の「依」って立つ処」とは、死ぬることの解決ができてこそ、この生をより深く味わうことができるのであろう。
『論註』に「蟪蛄は春秋を識らず、といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや」(論註P.98)とあり、今しか知らない者は、実は今も知らないというのである。生きることに意味があるように死ぬことにも意義を示してくださる言葉が蓮如さんの「後生の一大事」という言葉であった。

➡帰依
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