「自然法爾章」(御開山の命名ではない)に、
「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。
と、あるのだが、なんのこっちゃである。
で、この文の淵源は『華厳経探玄記』の一文に拠られたのであろうといふのでSAT(大正新脩大藏經テキストデータベース)を参照してWikiArcに追記してみた。→「名の字…」
私見だが、欧米の知識人は幼いころから自国語の語彙概念の基底であるラテン語に親しむといわれる。日本でも古くは漢字を真名(まな)と呼び、ひらがなやカタカナを仮名(かな)と呼称した時代があったが、語義の概念を考察する時には漢字に返して言葉の意味を考察したのであろう。御開山の漢字の意味を探る字訓釈もその意であろう。→「字訓釈」
御開山は和語の『唯信鈔文意』や『一念多念証文」で「文字のこころ」といふ語を使われているのも秀徹した眼で漢訳経典の漢字の意味を洞察されたのであった。
そのような意味では、本願寺派の浄土真宗聖典編纂委員会の手による「浄土真宗聖典(註釈版)」は、豊富な脚注があるので理解の助けになる。
この点では大谷派の赤本の聖典とは圧倒的な差がある。また、本願寺派では、宗派の枠を越えて一般の学術的研究に資するように『浄土真宗聖典全書』も発刊している。このような試みは、近代教学の「信心」に毒された大谷派の偏頗な教学では不可能であろう。しらんけど(笑
ともあれ、名号とは「正信念仏偈」に十二光を引かれた後に「本願名号正定業」とあるように、本願の名号は、正しく往生の決定する行業であった。それが、その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする、の信心正因説なのであった。愚直になんまんだぶを称えない坊さんは、これがワカランのです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ