深川倫雄和上は、旧軍の士官であり、いわゆる軍隊あがりであったから厳しい和上であった。ある意味では、この厳しさによって、林遊は深川倫雄和上に信心の驕慢の鼻を叩き折られて、愚直に、なんまんだぶを称えるようにさせて下さったものである。
「阿弥陀さまがごいっしょです」のサイトの「深川倫雄和上」の著作の欄には、「信心が欲しければ山口の俵山へ行けば手に入ります。木津西念寺支坊光摂坊の回りには、深川勧学和上の法莚に座し僧俗が捨てた信心が山のように転がっています」、と記したものであった。
厳しい和上であったが参詣者との会食の席などでは、アンタぁ、よう参ったの、まぁこっち来て一杯呑めやと親しくさせて下さったものである。── 和上に見つけて貰えるように会食の席では近くに席をとるようにしていたのは内緒である(笑 ──
以下の法話はyoutubeで見つけた温泉津での「彰順会」での法話である。午前の部は少しくノイズが入っているが和上の口吻(口ぶり。言い方)は、ありもしない信心から、なんまんだぶの味をお示し下さったことを想起し有難いことである。
「第7回彰順会深川倫雄和上」
「午後の部」
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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2020年7月30日 9:24 PM
急にすみません。
大無量寿経の41願に、「他方国土の諸菩薩が、名号を聞くと障害がなくなる」という願があります。その願について、信心決定したもの(必定の菩薩)は身体に障害がなくなると解説してある本があり、だったら身体障碍者の方が救われないではないか、自分も体の不調などが治るのが信心決定の証拠ではないか、と不審が出てきました。
そこで、様々な善智識の方に、「必定の菩薩というのは名前だけで、凡夫は凡夫」とか「42願以降を見ると超人的な菩薩への願だということが分かる」とおさとしいただいて、頭では納得したのですが、胸が承知してくれません。この41願への(誤った)解釈が、頭から離れません。
最近は、もう、「信心決定したものは諸根が具足する」という思いは薄くなってきて、頭の中に「41」という数字が浮かぶようになってきました。それを自分の「助かっていない証拠」だと思い、薄気味悪い気持ちになっていました。
他の善智識様は、「それは学問上の疑問だから、晴れることはない。その気持ちを持ったままで、救う南無阿弥陀仏だと聞き入れてください」「お助けは広大だからそのような不審は邪魔にならない」とおっしゃってくださって、だいぶ心配はなくなりましたが、教義的にも問題ないのでしょうか。これは「本願疑惑心」「計らい」「自力心」ではないのでしょうか
南無阿弥陀仏(そのまま救う)に疑いがなければ、このような変な不審は持っていてもいいのでしょうか。他の善智識様は持っていてもいいと仰っていたのですが、仏法に油断は禁物と聞いているので、教義に詳しい林遊さんに、教義的この不審(生起本末に疑いが晴れてるのに、身体はよくなってないのはおかしいじゃないかという)は持っていてもいいものなのか、ご教授頂きたいです。この不審が間違っているのは重々承知です。ただ、胸から離れてくれません。
南無阿弥陀仏や仏願の生起本末に疑いはありませんが、この不審だけが、念仏するたびに頭に浮かびます。
長文失礼しました。お答えいただけると幸いです。お忙しかったら大丈夫です。
2020年8月1日 1:33 AM
願についてリンク先の頁をご覧になることをお奨めします。
御開山は四十八願中に諸仏に通じる願と「念仏往生の願」を「真仮」といふ廃立をされておられるのだと思ふ。
それは法然聖人が、
ゆゑに知りぬ、四十八願のなかに、すでに念仏往生の願(第十八願)をもつて本願中の王となすといふことを。
と仰ったからでした。
「念仏証拠門のなかに…」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E8%A8%BC%E6%8B%A0%E9%96%80%E3%81%AE%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%AB%E2%80%A6
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2020年8月1日 2:29 AM
別願中の別願である18願以外の願が47願全て方便なので、あまり気にしなくていいということでしょうか
18願だけが「真」で、他の願は「仮」なのでしょうか?
安心決定鈔には
浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。
と書かれてありますが…
2020年8月1日 3:48 AM
お示しの『安心決定鈔』に、
【1】 浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり。弘誓は四十八なれども、第十八の願を本意とす。余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり。p.1383
とある「余の四十七はこの願を信ぜしめんがためなり」といふ言葉は、御開山の意によれば「欣慕(ねがいしたわせる意)の釈」です。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%AC%A3%E6%85%95%E3%81%AE%E9%87%88
何が真実であるかを知らない我らに、真実へ誘引する善巧方便でした。
ですから、第十八願以外の願は方便とも言えます。
ただ、御開山は、その第十八願の本意があらわされている願として、第十七・十八・十一・十二・十三の五願を挙げておられます。第二十二願は証(第十一願)に納めます
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%94%E9%A1%98%E9%96%8B%E7%A4%BA
ところでヒロさんは、信心の証拠が欲しいのか、または浄土真宗の「すくい」といふものを誤解されているかもですね。
証拠といえば蓮如さんが、
かるがゆゑに、阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、「衆生仏に成らずはわれも正覚ならじ」と誓ひましますとき、その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すといふも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。p.1179
と、仰っておられるように、私の口に称えられている無阿弥陀仏がその証拠です。
そして、浄土真宗は仏法でありますから「さとり」を得ることが、その仏法生活の窮極の目的でした。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E6%B8%88%E5%BA%A6
今はもう西方仏国へ移住された法友の佐々真利子さんは、障害をお持ちでしたが、その障害をバネとして、なんまんだぶに出遇われました。ひょうひょうとして明るい女史でしたが、時々ドキッとすることを仰るので、怖いけどありがたい女性でした。
『「いのち」地球よりも重きもの、かけがえのない尊きもの..と人は言う』
http://www.hongwan.net/index.php/%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%82%8A%E9%81%8A%E3%81%B3#.E7.AC.AC.E4.BA.8C.E5.8D.81.E5.9B.9B.E5.9B.9E.E3.80.80.E4.B9.9D.E5.B7.9E.E5.9C.B0.E5.8C.BA.E4.BB.8F.E6.95.99.E5.A9.A6.E4.BA.BA.E5.A4.A7.E4.BC.9A
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2020年8月1日 4:35 AM
だいぶ「願」への理解が深まって、不審も晴れてきました
>ところでヒロさんは、信心の証拠が欲しいのか、または浄土真宗の「すくい」といふものを誤解されているかもですね。
信心の証拠が欲しいのではなく、「信心の証拠が身体の状況であったら教義的に問題ではないか」という不審が1年以上ずっと晴れなかったのです。他の善智識様が「41願はそういう願ではない」と仰っていても、「南無阿弥陀仏を心得たものの身体が具足するならば、自分の信心も他人の信心もおかしくなってしまう」という強迫観念と申しますか、自分でもなぜかわからないのですが、異常に41願のヘンテコな解釈が胸にガンと居座っていました。(他人になんと言われようと晴れませんでした)
林遊さんの「18願は別願中の別願」というおさとしで、自分の中でのヘンテコ41願の解釈は薄らいだものの、これからまた出てくるかもしれません。
この不審は領解文の「自力の心を振り捨てて」の自力に入るのでしょうか?この変な不審は、生起本末に疑いがなければ持っていてもいいものなのでしょうか
長文すみません。南無阿弥陀仏
2020年8月1日 1:27 PM
疑いと不審は違う概念です。
「疑情」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%96%91%E6%83%85
仏教語は世俗語と異なった意味を持っているので、出来たら辞書を引くことをお奨めです。なお浄土真宗では、通仏教と違う浄土門固有の解釈をする場合があるので要注意です。また、自分の字力で解らないことは、判らないままに置いておくのもありです。
『大経』往覲偈に、
如来の智慧海は、深広にして涯底なし。
二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了(さと)りたまへり。p.47
と、ありますが、先人は「仏智深きが故に我が領解を浅しとす」と言われていたものです。越前の先人は、
富士の白雪ゃ朝日で溶ける
凡夫疑い晴らさにゃ解けぬ
とけよとけよというよりも
晴れたお慈悲を聞きほれる
http://blog.wikidharma.org/blogs/blog/2010/05/16/%e9%98%bf%e5%bc%a5%e9%99%80%e5%a6%82%e6%9d%a5%e3%81%ae%e3%81%94%e4%bf%a1%e5%bf%83/
と、云っていましたが、自分の信心に固執するよりも、如来のご信心といふことに着目することも大切なことだと思ふ。
「如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF:%E7%96%91%E8%93%8B
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2020年8月1日 11:13 PM
ありがとうございます なんまんだぶ
一応お聞きしますが(しつこくてすみません)、「本願を聞き入れたものは必定の菩薩になって身体が具足するはずだ、これはおかしい」という頭にこびりついている変な解釈は疑いではなくて、不審でしょうか
2020年8月3日 3:52 PM
ヒロさんは、いたる所で同趣旨の質問をされていますね。
要するに、ご自分の機に合う問いを求めているのでしょが、リンクした先の文章をよく読んでご自分で判断されるべきです。
「人惑を受けず」といふ言葉がありますが、後生の一大事は、阿弥陀仏と相談されるべきです。
「人惑を受けず」
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BA%BA%E6%83%91%E3%82%92%E5%8F%97%E3%81%91%E3%81%9A
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2020年8月3日 5:38 PM
様々な善智識の智慧を借りたほうが仏法について正確に理解できると思ったもので・・ すみません
教義的にはこれが疑情なのか不審なのかは分からないので自分で判断せねばならないということでしょうか?なかなか厳しいですね… こんな変な強迫観念を持っている自分だけは助からないのだと思います
なんにせよ ありがとうございました 南無阿弥陀仏
2020年8月5日 8:59 PM
林遊師の師匠のお一人、深川倫雄師のご説法は難しい。しかし「のみをとっても、なんまんだぶ」何とも言えないお味わいを感じました。また本願、本願言う前にお念仏称えましょう。これまた心に残りました。「わが弥陀は名をもって物を接したまう。」なんまんだぶ