新作領解文は発布された時、各種の仏教思想と比較して浄土真宗を学んでいる者は、ナンジャコレ? と、本覚法門の亡霊があらわれたのかと思料した。
「新作領解文」
御開山は法然聖人からお聞きしたことを『西方指南抄』の「浄土宗大意」で、
聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる
「浄土宗大意」
と、聖道門は一元の立場の娑婆で得道する法門であり、浄土門は娑婆と極楽(浄土)の二元の立場であり極楽へ生まれる法義だとされておられた。これが法然聖人の往生浄土宗の立教開宗であった。
「選択本願念仏集」
ともあれ、新作領解文に拒否感を示すのは、浄土門から聖道門への階梯を意図しているのではないかといふ素朴な疑問であった。お聖教も読まず信なき坊主の蝸牛角上の争い(でんでん虫の角の上でのあらそい。些細なことや、狭い世界でのつまらない争いのたとえ)であるから門徒としてはどうでもいい。
そんなこんなで「新作領解文」の「私の 煩悩と 仏のさとりは 本来一つゆえ 「そのまま 救う」が 弥陀のよび声」は浄土教の破壊である。
「トーク:本覚思想」
「令和5年(2023)1月16日発布の「新しい「領解文」『浄土真宗のみ教え』」の一節、私の 煩悩と 仏のさとりは 本来一つゆえ 「そのまま 救う」が 弥陀のよび声、といふ表現がある。これは大乗仏教に於ける「煩悩即菩提」「生死即涅槃」を、生半可な空思想の理解から煩悩も菩提も、縁起→ 無自性→ 空であり、本来は不二で相即しているから「本来一つ」と云いたいのであろう。
このような煩悩と菩提(さとり)を「本来一つゆえ」といふ「絶対不二の一元論」の思想はまさに天台本覚法門の思想である。
煩悩具足の凡夫が、仏のさとりと一つであるという本覚法門は、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしかない凡夫の現実が無視されているのであった。
梯實圓和上は『法然教学の研究』「本覚法門と浄土教」で、
煩悩具足の凡夫が、我即真如なり、我即仏なりとおもえば真如であり、仏であるという本覚法門は、深い罪障にまつわられ、煩悩に狂わされて愛と憎しみのはざまを迷いながら生きるしか生きようのない凡夫の現実が全く無視されているといわねばならない。娑婆即寂光と理論的に理解したとしても、現実には娑婆の苦悩から解放されるわけではない。煩悩即菩提、生死即涅槃と思っても煩悩、生死の現実は少しもかわらないし、我即仏と信じても、浅ましい凡夫でありつづけるとすれば本覚法門とは、娑婆に生きる凡夫の現実を捨象した空論であり、抽象論に過ぎないときびしく批判していったのが法然の浄土教学であった。
とされておられた。浄土教の穢土と娑婆の相対二元論ではなく、「絶対不二の一元論」はまさに天台本覚法門の思想である。 ここでは梯實圓和上 著『法然教学の研究』p.426から天台本覚法門の一端を窺ってみる。なお「隠/顕」をクリックして表示される漢文読下しは林遊が追記した。
「トーク:本覚思想」
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