新義派と古義派

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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本願寺派に於ける教学論争としての「三業惑乱」は、いわゆる新義派と古義派の教学論争であった。この論争が本願寺派内では収拾がつかず、為政者(権力者)である幕府の介入によって裁断された《恥の歴史》がある。
三業惑乱

現代の「令和の領解文騒動」では、龍谷門主 釋専如が発布した「新作エセ領解文」を新義派とし、我々門徒が「領解文」制定以来、口にとなえ耳になずんだ「伝統真正領解文」を古義派とすることも可能だろう。エセとは似非(似てはいるが本物ではない、にせものであること)である意である。
このような新旧対立の場では、御開山が説かれた浄土真宗の教義に無知な新義派の坊主(宗教貴族)は宗門の権力を握っているから、宗義を混乱させたとして個人攻撃をするであろう。深川 宣暢和上への監正局への懲戒申告もその例である。
これは「法規上の訴え、懲戒、係争又は紛争、秩序保持並びに財産の管理及び経理の運営に関する審判と監査機関である「監正局」と国家類似の権力分立の形式を採用している。」

これは大事なことであるが、御開山は「信巻」末で、永観師の『往生拾因』を引いて「和合僧を破す」ことを「五逆」とされていた。
五逆追釈

その意味では、今回の「平成領解文騒動」は、なごやかな浄土真宗の僧俗の門徒に新義としての「新作エセ領解文」を提起して門徒に唱和させるといふ企みは、教団の和合一致を破壊し、分裂させる「破和合僧」といふ五逆罪であろう。
五逆罪

龍谷門主 釋専如さんは、「新作エセ領解文」によって「破和合僧」といふ状況を惹起したことに責任を持つべきである。

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エセ領解文

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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そもそも論だが、今回の「平成領解文騒動」は、アホな(真宗教義を理解していない)門主が、伝統的に門徒に受持・読誦されてきた領解文が伝灯されてきた意味を知らず、2021/04/15の『教開宗記念法要(春の法要) ご門主法話(ご親教)「浄土真宗のみ教え」』、

浄土真宗のみ教え

南無阿弥陀仏(なもあみだぶつ)

「われにまかせよ そのまま 救う」の  弥陀のよび声

私の 煩悩と 仏のさとりは 本来 一つゆえ

「そのまま 救う」が  弥陀のよび 声

ありがとう といただいて

この 愚身(み) をまかす このままで

救い 取られる  自然の 浄土

仏恩報謝の お念仏

み教えを 依りどころに 生きる 者となり

少しずつ  執れの 心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに  流されず

穏やかな 顔と 優しい 言葉

喜びも 悲しみも  分かち 合い

日々に  精一杯 つとめます
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001492.html

に、正統領解文を真似た師徳の

これもひとえに

宗祖聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

を突っ込んだ(追記した)ものが、今回の新作エセ(似非)領解文であった。
たぶん、専如門主は真正『領解文』を称えたことが無いから、いわゆる君側の奸(君主の側で君主を思うままに動かして操り、悪政を行わせるような奸臣(悪い家臣・部下))に騙されるのであった。君側の奸は伯父さんだし(笑

それは、それとして、いわゆる今回のエセ領解文反対派は盛んに蝸牛角上(狭い世界でのつまらない争いのたとえ)の闘いを仕掛けるのだが、2021/04/15の消息に、何も反応しなかった咎を内省すべきであろう。
もっともこの駄文を頭の悪い門主が「領解文」と表現したことから今回の騒擾が起こったのであろう。ご門主、ご謀叛であるが、これどうするんだろ(笑

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七地沈空の難

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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仏教を学ぶ上で、「空」のドツボに嵌ることを浄土真宗では「七地沈空の難」といふ。
『論註』で浄土へ往生すれば速やかに菩薩の階位を超出することを、第二十二願を引いて、

常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」と。

と、「常倫諸地の行を超出」と菩薩の階位を超出する説明に於いて「七地沈空の難」を説くのであった。これが、
➡「七地沈空の難
であった。
この「七地沈空の難」とは仏教を学ぶ上で「空理」に陥ることをいふのであった。
七地の菩薩は煩悩障を断滅して我執が完全に排除される。それは小乗の阿羅漢の悟りに相当する境地である。それは、空の境地を得る故にすでに自身の解脱は成し遂げたので、上に求めるべき菩提も下に救うべき衆生もないと思って修行を中断する。
その意味では、いわゆる空理・空論に陥って浄土教における浄土の「妙有」の世界を知らないのであろう。
その意味では「教判の教判」といわれる『華厳教』の「五教十宗判」などでは、龍樹の中観を「空始教」と位置付けて、その後の発展を展開している。
➡「大乗始教の立場②ー般若中観

ともあれ、御開山は「空観」を説く龍樹菩薩を浄土真宗の第一祖とされるのだが、それを基礎として、その後の七高僧(六高僧)の思索の「智慧」と「慈悲」の展開が浄土教であった。
空理・空観に沈んでいる頭の良い坊さんは
「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」 (註 209)
と、あるように「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」のであった。
➡「自性唯心

ともあれ、御開山は『教行証文類』で、浄土経典だけでなく天台大師の「五時八教判」の釈尊が最初に説かれた『華厳経』と最後に説かれた『涅槃経』を引文されることで全仏教を総説されておられるのであった。
➡「五時の教

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令和の新作領解文騒動

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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令和の新作領解文騒動は、いわゆる唱和の推進などのように宗教の運動論なのだと思ふ。宗義との整合性をはかる為に、御用学者である宗学者によって色々な会通(一見、矛盾しているようにみえる記述を一貫した趣意のものとして説明すること。)が行われるのだろう。要するに矛盾を糊塗する曲学阿世(時代の好みにおもねり,世間の人に気に入られるような説を唱えること)の輩の会通ゴッコであろう。
何故このような令和の新作領解文騒動が起こったかといへば、浄土真宗の中に「運動論」を持ち込んだ為であった。あらゆる場ですべての人に唱和させようといふ企図は、スローガン(団体や運動の主義・主張を、言い表した語句。標語)によって大衆(門徒)に行動を扇動する左派の運動論であった。

大谷派の金子大榮師は、御開山の七百回忌で「浄土の機縁」といふ法話をされた。
その中で浄土の機縁(教えを求める者〔機〕が、教えを聞くきっかけ〔縁〕となること)として「生活意識」「行動意識」といふことを述べておられた。
そして、
〔浄土の教え、真宗の教えというものは、生活に潤いをあたえ、生活の智慧となるものであって、行動の原理となるものでないと、私はそういうふうに思うのであります。〕
と述べておられた。

>>「浄土の機縁」の抜粋
さて、その生活と行動というものに伴なう感情を申しますと、生活における感情は、悲しみと喜びというものであります。行動者には喜びとか悲しみということがあるのであろうか。親鸞が日本人に教えたものは、なにを悲しむべきか、なにを喜ぶべきかということであるといっている人がおります。いかにもそのとおりでしょう。私も人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らないものだと語ってみたこともありました。このような時代に生まれて、人間の生活は、いろいろのことに悩まされ、わずらわされておる。そして、それにたいしてどうすることもできないというところに、人生生活の悲しみというものがある。その人生生活の悲しみにおいて、それを介してはじめて大悲の本願をいただくことができる。そこにふかい喜びがある。このような意味において、ほんとうに悲しむべきこととほんとうに喜ぶべきこととは、生活に即するところの宗教だけが与えているのであるといってよいのでしょう。

それが行動ということになりますと、どうでしょうか。それは、悲しみとか喜びとかいう言葉を使うとか使わないとかいうことではありません。善悪ということで動いている行動なのでありますから、その行動が成しとげられたときと、成しとげられなかったときには喜ばしい悲しいというよりも、快・不快というようなことではなかろうか。あのときは痛快だった。また負けたときは千載のうらみというようなことをいう。このような行動の世界では、”我は善なり、汝は悪なり”というようなことで争うことよりほかにないのであります。こうして、行動の意欲は”戦い勝ちとるために”ということになっているのであります。
➡「浄土の機縁

>>
と述べておられた。
ともあれ、浄土真宗には世俗の行為について ~をなせといふことは無い。何故なら ~が出来ない人はどうなるのですか?といふことになるからである。
その意味で行動といふ運動論と最も離れているのが、浄土真宗のご法義であった。

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