仏教を学ぶ上で、「空」のドツボに嵌ることを浄土真宗では「七地沈空の難」といふ。
『論註』で浄土へ往生すれば速やかに菩薩の階位を超出することを、第二十二願を引いて、
常倫諸地の行を超出し、現前に普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ」と。
と、「常倫諸地の行を超出」と菩薩の階位を超出する説明に於いて「七地沈空の難」を説くのであった。これが、
➡「七地沈空の難」
であった。
この「七地沈空の難」とは仏教を学ぶ上で「空理」に陥ることをいふのであった。
七地の菩薩は煩悩障を断滅して我執が完全に排除される。それは小乗の阿羅漢の悟りに相当する境地である。それは、空の境地を得る故にすでに自身の解脱は成し遂げたので、上に求めるべき菩提も下に救うべき衆生もないと思って修行を中断する。
その意味では、いわゆる空理・空論に陥って浄土教における浄土の「妙有」の世界を知らないのであろう。
その意味では「教判の教判」といわれる『華厳教』の「五教十宗判」などでは、龍樹の中観を「空始教」と位置付けて、その後の発展を展開している。
➡「大乗始教の立場②ー般若中観」
ともあれ、御開山は「空観」を説く龍樹菩薩を浄土真宗の第一祖とされるのだが、それを基礎として、その後の七高僧(六高僧)の思索の「智慧」と「慈悲」の展開が浄土教であった。
空理・空観に沈んでいる頭の良い坊さんは
「末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」 (註 209)
と、あるように「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す」のであった。
➡「自性唯心」
ともあれ、御開山は『教行証文類』で、浄土経典だけでなく天台大師の「五時八教判」の釈尊が最初に説かれた『華厳経』と最後に説かれた『涅槃経』を引文されることで全仏教を総説されておられるのであった。
➡「五時の教」
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ