人間の話を100年しても所詮人間にしか成らない

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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林遊は、人としてとか人間としてとなどとの前置きでご法義を語るのが大嫌いである。
このように語る人(坊主)は、平均的な人間像を脳裏において語るのであろう。これでは人間教であり、まさに山本七平氏のいう日本教」* の世界である。
浄土真宗は、行として、唯々、口になんまんだぶと仏名を称えるご法義は、平均的でない人を相手のご法義ではなかっただろうか。
人間の話を100年しても所詮人間にしか成らないのである。仏の話を説き/聞くことが人間が仏に成る法なのである。
こういうと、そんな法話は判らんではないかと言われるが、分からんでいいのである。判るとか分からんは人間の側の話で、阿弥陀如来はそんなことは問題にしていないのである。そもそも、1000年考えても死ぬとしか思えない事を、わが国に生まれると欲(おも)え、というのだから無茶な話である。
弘法大師は秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)で「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し(生生生生暗生始 死死死死冥死終)」と仰ったそうだが、自らの命の来たところとその行く末を知らないのが林遊のような存在である。
しこうして、何が生で何が死であるかが判らないから、阿弥陀如来の理解できない判らない話を受容した時、なんまんだぶという生と死を超える往生極楽の道が窺えるのであろう。念仏成仏是真宗である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ