林遊は、人としてとか人間としてとなどとの前置きでご法義を語るのが大嫌いである。
このように語る人(坊主)は、平均的な人間像を脳裏において語るのであろう。これでは人間教であり、まさに山本七平氏のいう「日本教」* の世界である。
浄土真宗は、行として、唯々、口になんまんだぶと仏名を称えるご法義は、平均的でない人を相手のご法義ではなかっただろうか。
人間の話を100年しても所詮人間にしか成らないのである。仏の話を説き/聞くことが人間が仏に成る法なのである。
こういうと、そんな法話は判らんではないかと言われるが、分からんでいいのである。判るとか分からんは人間の側の話で、阿弥陀如来はそんなことは問題にしていないのである。そもそも、1000年考えても死ぬとしか思えない事を、わが国に生まれると欲(おも)え、というのだから無茶な話である。
弘法大師は秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)で「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し(生生生生暗生始 死死死死冥死終)」と仰ったそうだが、自らの命の来たところとその行く末を知らないのが林遊のような存在である。
しこうして、何が生で何が死であるかが判らないから、阿弥陀如来の理解できない判らない話を受容した時、なんまんだぶという生と死を超える往生極楽の道が窺えるのであろう。念仏成仏是真宗である。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
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2024年2月12日 8:50 PM
ああ、これは最近になって特に味わえるようになってきた内容です。耳当たりが良い言葉に重大な落とし穴があるように思います。戦後の教育現場は日教組の影響もありスローガンは「人として」と枕詞が付くものが本当に多いのです。「幻想左派的仲良し教」です。私が勝手に作った造語ですが、多数の平均的な人間がいるという前提で皆がかくあるべきという教育をしてしまった。そのせいで、法話に立ち話す僧侶まで学校で染み付いた「先生」という立場で生きる教を語るようになってしまいました。しかしこれでは浄土真宗とはかけ離れたものを我が身の上にこしらえてしまうと思います。
死を目前にして、この生きる教は非常に厄介だと思いました。生きることにも、死ぬことにも意味があると教えらた親鸞聖人ですが「生きる意味」「生き方」ということに比重が多くなり ともすれば、「生きる」しか興味の無い法話が受け入れられるように思います。かっこいい生き方というのですか、これが「幻想左派的仲良し教」の上に成り立っていると手が付けられない程になってしまっています。久保龍雲さんでしたか、彼のグループに招待されて中を読ませて貰いましたが 「生き方と生きる意味」が九分九厘、誹謗中傷ではなく本当に厄介だと思いました。この方が、多数の方々に受け入れられる言葉を使うからでしょうね。この辺は非常に誤解を受けるので発言はしていませんが私自身が思いやりや優しさを重要視しないと勘違いされる部分です。グループの最初に「人としてのマナー」らしき注意書きがあるのも、「生きる」に重点を置いた道徳教となっているからでしょうね。今、死者とともにという発言は到底受け入れられないでしょう。この点が非常に厄介な事態だと思いました。駄文をお許しくださいませ
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2024年2月22日 8:58 PM
今日は、、、こちら側が信用に値する人間でなければ仏法を聞いて貰えない と言う人に遭遇しました。例外なく阿部信者か高森親鸞会信者である事が とてつもなく悲しい。そもそも、かの指導者達がなぜ 今もなお御法義を聞きたい人を迷わせるのであろうか。ただでさえ、廃悪修善に励みたがる学校エリート達が心の美しさなるものまでを要求する。どこまで迷いが深いのであろうかと、本当に疲れ果てた日であった。阿弥陀様に、はずかしながら こんな涙を報告せねばならないのか
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ