「新作領解文」の「第三段、念仏者の生活」

林遊@なんまんだぶつ Post in WikiArc編集, つれづれ
3

「新作領解文」の「第三段、念仏者の生活」
について強い違和感を感じたのでWikiArcに以下の文を追記した。

宗教とは、宗と教え、また、宗の教えの意で仏教のもろもろの教え、あるいはその中の一つを指していう。それは自らの存在の意味を確認しようといふ「存在理解の枠組み」でもあった。この種々の仏教の中で、浄土真宗は大人の宗教だといわれる。梯實圓和上は、それを、

 浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛欲や憎悪の煩悩を起こし、人を妬ねたんだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる、そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始まるのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。(『親鸞聖人の教え・問答集』p.103)

と仰っておられた。その意味では浄土真宗 の信心とは、二種深信の第一深信で説かれる、いわゆる悪人正機の法義でもあった。真宗の僧俗でどうせ私は凡夫ですからとうそぶき、自らの内面の悪(煩悩)を見つめない者を「慙愧なき真宗は外道に堕する」といふゆえんである。浄土真宗とは、往生浄土を真実とする宗教という意味である。悪業煩悩を持つゆえ、この土でさとりを完成することが出来ないという挫折感をとおして浄土へ往生してさとりを得させることを目的とする阿弥陀如来の本願の仏法である。
➡「WikiArc:浄土真宗聖典目次」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

« Prev: :Next »

3 Responses to “「新作領解文」の「第三段、念仏者の生活」”

Leave a Reply