一念覚知

林遊@なんまんだぶつ Post in WikiArc編集, つれづれ
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ある浄土系の新興教団では、本願成就文の「信心歓喜、乃至一念」の一念を骨頂して「意業安心」とか「歓喜正因」とか、さらには「一念覚知」を強調して、信心はハッキリと体験できなければならないとした。 そして信を獲たならば、その日時を覚えていない筈はないと信一念の覚知の証明のために年月日時の覚不覚を論じ」ることをを強調したのであった。
➡「年月日時の覚不覚を論じ」
➡「現代における異義の研究」

これに対して蓮如さんは、
『浄土真宗聖典全書』五「蓮如上人仰条々連々聞書」p.819 に、

一 信心決定のひとありけるが、彌陀をたのみたてまつりし其の年、又月日時をも忘侍(わすれはべ) りければ、蓮如上人へ申されけるは、たのみ奉(たてまつり)たりし月日を 不覚(おぼえざる)はいかゞ也と、云人ありと申人候、承(うけたまわ)り候へば、尤(もっと)もと存じ候が、いかゞと不審申されければ、決定の心にもとづきて年久しき人もあるべし、年月時日を忘るゝ人あるべし。衆生はわすれたりとも、佛の御方には御わすれ有べからず、一度摂取ありては御すてなき事なりとぞおほせらる。

と、ある。
蓮如さんの「衆生はわすれたりとも、佛の御方には御わすれ有べからず、一度摂取ありては御すてなき」の語は「弥陀経讃」の、

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる (浄土 P.571)

にある「摂取してすてざれば」の「国宝本」の左訓、

摂おさめとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる。
と、同意である。ともあれ浄土真宗のご法義は、過去の獲信を追憶するのではなく「今・ここ」での、ただ今の救済なのであった。

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