大豆(まめ)ぬすみ

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗の古参の門徒は、あさましいとか恥ずかしいという独白をしたりする。
独白であるから自己内対話であって外へもらすような言葉ではないのであろう。浄土真宗のご法話では譬喩や例話などを語るのであるが、これを自分の話と聴けるようになることを古来から「耳を育てる」といっていたものである。
人にばれなけれがよいのではなく、人を超えたものを感じる時、あさましいとか恥ずかしいという思いがわくのであろう。このようなお育てが世俗の倫理観を超えた浄土真宗の倫理観であろうと思ふ。

四十五
大豆(まめ)ぬすみ

一 中むかし書にも見えたるたしかなるいさぎよき噺しなるが 百姓佐平
といういふもの家まづしくして 夫は他国へかせぎに出(いで)て久しく家にかへらず 妻は三才に成小児と家に居けるが いさゝかの賃銭にてやとはれあるきけれどもいよいよまづしく 親子両人たへがたき貧苦より貧のぬすみ心出て 人の畑の大豆をむしりてぬすみかえらんと 人の寝しづまりて丑みつごろに三才になる小児をつれて畠ある所へゆきて 母(かか)はそちをもたべさすため大豆をぬすみに来たりしゆゑ 其方(そち)は道に立て居て人はこぬかと見て居よといひつゝ 畑の中に入大豆のさやをむしりてたもとの中へおしこみおしこみ小声になりて だれも来はせぬかといへば 小児のこたへには たれも人はひとりも来りはせぬ 御月様が見てござるばかりじやといふ 母親畠にありながら小児がいひし一言むねにこたへ 其むしりてたもとにあるさやまめをそのまゝ両袖に入れながら三才の小児が手をひき 家にもかへらず大豆の畑主の家にゆきて 夜ともいはずたゝきおこして そのあるじに はじめおはりを打ちあかしてあやまり入たれ 人は見て居ずとも天の月日の見て居たまへるはおそれざりし心中こそおそろしけれと ざんぎさんげのなみだにむせびひれふしければ 畑ぬしも自身の心中にひき合せて ぬすみし大豆はその小児にくれたりとぞ 小児何ものぞ天にくちなし人を以ていわしむる 母なに人ぞ小児の一言にて悪心をあらためたるは善女人なりけれ

通俗『仏教百科全書』第三巻 第四十五より。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

将来する浄土

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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幼い頃から、お仏壇の前で家族でお勤めをする環境で育った。 そして、御開山という方の話や阿弥陀さまという仏さまの話を聞きながら育ったせいか、お仏壇の正面の掛け軸に描かれた阿弥陀さまという仏さま(越前では正面は阿弥陀如来の絵像で、両脇掛は帰命尽十方無碍光如来の十字名号と南無不可思議光如来の九字名号である)は、わたくしの方へ来る仏さまだと思っていたも のである。阿弥陀さまを、親さまと呼び親しんだ年寄りや両親の言葉に、親をも超えた「親さま」という存在は常に現在のわたしを包む存在のように意識してい たのだと思ふ。その意味では、灯明の油煙で幾分金ぴかは煤けてはいる仏壇だけれども、その中におられる阿弥陀さまは、わたくしへわたくしへと向かって下さ る仏さまだと思っていたものである。
もちろん思春期を迎え反抗期に入れば、お仏壇は愚かな年寄りの迷信の産んだ産物であり、なんまんだぶというわ けの判らない呪文を称える輩は人生の敗残者としか見えなかったものであった。それはそれとして、何がどう間違ったのか、この林遊が、なんまんだぶをとなえる 身になった。幼少に耳にし経験した向こうから来るという概念は、過去から未来へという時間の流れという時間軸ではなく、未来が現在へ将来するという「弥陀 如来は如より来生」する、如─来であった。そしてそれは、まさに来る「将来する浄土」であり、浄土からわたしの口に届きつつある如─来する名号であった。 なんまんだぶを称えるという行為は、世界が世開として浄土が音をたててバリバリと開いて現在に将来するすることでもあろう。
未来と将来は同義語であるが、未だ来たらずという未来への願望ではなく、いままさに 現在のわたくしに、なんまんだぶと声になって将来してくださるのが現在する如来であり浄土であった。(もちろん現前といっても神秘的な意味でも凡夫の妄想する体験でもなく、御開山のお示し下さったご法義の上での論理的必然としての意である)。言葉を超えた世界から、言葉として口に称えられ耳に聞こえる大悲の顕現としてのなんまんだぶは、如来であり浄土であった。
ともかく、「将来する浄土」と いう表現の考察が面白いので『親鸞と現代』という著書のさわりをUPしておく。少しく西欧哲学思想の描くキリスト教くさい哲学の視点もあると思うのだが、御開山 親鸞聖人のみておられた「大悲往還の回向」の往相と還相の描く世界を知る手がかりとして、この「将来する浄土」という観点は面白い思ふ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

リンク:将来する浄土─親鸞と現代より

無量寿経と観無量寿経の三心

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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『無量寿経』と『観無量寿経』と『阿弥陀経』の三部を所依の経典とされたのは法然聖人である。(*)
法然聖人はこの三部経を「三経一致」の立場でみられるのだが 、自らの回心の契機となった『観経疏』を著された善導大師にちなんで、偏依善導一師(偏に善導一師に依る)という立脚点から『観経』からの視点を主とされる。
御開山が、「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」と『歎異抄』で述懐されたと同じように善導大師を一師として追慕されたのである。
もちろん、本願が説かれているのは『大経』であるから、御開山が著された法然聖人の法語集である『西方指南抄』で、

「『双巻無量寿経』、浄土三部経の中には、この経を根本とするなり。其故は、一切の諸善は願を根本とす」(*)

とされておられ本願が説かれている『大経』を根本の経であるとみられていた。
御開山は、この法然聖人の経典観を敷衍し『大経』の衆生の生因三願、第十八願、第十九願、第二十願を根本と枝末に分判し、願海真仮をいわゆる六三法門としてあらわされたのである。これは「三経差別門」からの見方である。

六三法門(*)

三 願 三 経 三 門 三 藏 三 機 三往生
第十八願 仏説無量寿経 弘願 福智蔵 正定聚 難思議往生
第十九願 仏説観無量寿経 要門 福徳蔵 邪定聚 双樹林下往生
第二十願 仏説阿弥陀経 真門 功徳蔵 不定聚 難思往生

しこうして法然聖人の本意は『大経』の第十八願にあるということを確定されていかれたのであった。第十八願が根本の願であるとし、第十九願、第二十願を枝末の方便の願であるとみられ、それぞれの願に三経を配当されたのは前人未到の御開山の卓見である。まさに信心の智慧で経典の源底を探られたからであろう。
ただし『観経』も『小経』も経の当面の「顕説」では方便であるが、第十八願の意が「隠彰」されているときは真実があらわされているとみられた。これを顕彰隠密(けんしょうおんみつ)という。
このように『大経』と『観経』(『小経』もふくむ)は、重層的に複雑に絡み合っているのであった。

覚如上人は『口伝鈔』で、各経典の説相(説き方)に着目され、救済する法の真実と、救済される機の真実という形で三部経を理解することを示しておられる。

いはゆる三経の説時をいふに、『大無量寿経』は、法の真実なるところを説きあらはして対機はみな権機なり。『観無量寿経』は、機の真実なるところをあらはせり、これすなはち実機なり。いはゆる五障の女人韋提をもつて対機として、とほく末世の女人・悪人にひとしむるなり。『小阿弥陀経』は、さきの機法の真実をあらはす二経を合説して、「不可以少善根福徳因縁得生彼国」と等説ける。無上大利の名願を、一日七日の執持名号に結びとどめて、ここを証誠する諸仏の実語を顕説せり。(*)

現代語:梯實圓和上著『聖典セミナー 口伝鈔』より引用。

いわゆる「浄土三部経」が説かれた時(とその法義)についていうと、まず最初に説かれた『大無量寿経』は、第十八願に誓われている他力真実の法を説き表されたものですが、それを聞いておられる聴衆は、還相の菩薩であって、仏が仮に菩薩の姿を現して聴聞されているのですから、説法の対機は権機(権化の人)です。
次に説かれた『観無量寿経』は、救済の目当てとなっている機の真実のありさまを顕し示したものです。これをすなわち実機といいます。仏が救済の目当てとされている者のまことの姿だからです。従来は、いわゆる五つの障りがあって仏になることは出来ないといわれていた女性の韋提希夫人を救済の目当てとすることによって、釈尊在世のころより遠くへだたった末法の世にあって苦しみ悩んでいる女性や、悪業を積んで皆から見放されているようなものも、阿弥陀仏の本願はわけへだてなく平等に救うということを知らせるための経なのです。
最後に説かれた『阿弥陀経』は、先に説かれた法の真実を顕す『大経』と、機の真実を顕す『観経』という二経の法義をあわせて説かれています。すなわち「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」(『註釈版聖典』一二四頁)といって、『観経』に説かれたような、自力の定善や散善という権仮方便の行法は、少善根にすぎないから報土には往生できないと誠め、五濁悪世の凡夫のために、『大経』に説かれた本願の名号を、あるいは一日、あるいは七日、数の多少を問わず称えるばかりで、報土に往生できるという大きな利益を得させる、無上の功徳を具えた真実の法を勧められています。さらに『阿弥陀経』は、このように本願の名号(真実の法)によって五濁悪世の凡夫(実機)が救われると説かれた釈尊の教えが真実であることを、無量の諸仏が、讃嘆し証明されるという諸仏の証誠を説き顕されています。 このように機法を合説して諸仏が証誠されるところに『阿弥陀経』の特徴があります。

このように『大経』は法の真実をあらわし、『観経』は機の真実を説き、『小経』は合説という視点は三部経の一定の理解に資するであろうと思われる。

この、機の真実を説く『観経』には、至誠心、深心、回向発願心の三心が説かれ「具三心者 必生彼国(三心を具するものは、かならずかの国に生ず」と《必》の字がある。この《必》の「かならずかの国に生ず」の語に古くから浄土願生者が深い関心を持って来たところである。

さて、『大経』の第十八願には「至心信楽欲生我国(至心信楽して、わが国に生ぜんと欲へ)」とある。この文の当面では、至心信楽は、欲生の修飾語であって三心(信)にはみえない。この至心信楽欲生を『観経』の三心から逆観して、至心と信楽と欲生の三心(信)であるとみられ、『大経』の「至心信楽欲生」を開いて具体的に三心として説かれているのが『観経』の三心であるとされたのは法然聖人であった。至心は至誠心、信楽は深心、欲生我国は廻向発願心であるとされたのである。以下は法然聖人の『観経釈』から当該部分を引いておく。

しかれば経に云く。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具する者は、かならずかの国に生ず。  おおよそ三心は万行に通ず故に、善導和尚この三心を釈して以って正行・雑行の二行とす。 いまこの経の三心は即ち本願の三心を開くなり。
しかる故は、至心とは至誠心なり、信楽とは深心、欲生我国とは廻向発願心なり。  これを以ってこれを案ずるに必生彼国の言は深き意(こころ)のあるべしか。(*)

これによって、第十八願の至心・信楽・欲生は、『観経』の至誠心・深心・回向発願心と対応づけされたのであった。『大経』には至心信楽欲生の様相は説かれていないのだが、『観経』の三心と対応することにより、そして善導大師の著された『観経疏』の釈によって『大経』の三心(信)を洞察されたのである。
本来ちがう経典をこのようにみることが出来るのは天才の法然聖人のなせる技である。なお法然聖人は、『西方指南抄』中本「十七条御法語」によれば、

又云く、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。(*)

と、至誠心・深心・回向発願心の中では、深心が中心であるとみられていた。『大経』では至心、信楽、欲生の三心(信)の中の信楽である。
御開山は、この『観経」の三心を深心一心に総摂し、その深心を展開されたのが『大経』の三信(心)であるとみられたのであろう。 そして『大経』の信楽を中心として至心と欲生を洞察し「如来よりたまはりたる信心」として展開されるのが「信巻」の三心釈である。そしてこの三心(信)を信楽一心に総摂し『浄土論』の「世尊我一心 帰命尽十方無礙光如来」の「一心の華文」であるといわれるのであった。

このようにみてくると、単純に平面的に『観経』の三心を自力とし、『大経」の三心(信)を他力とするのは如何かと思ふ。『観経』も『小経』も、そこに阿弥陀如来の本願があらわされているときは真実なのである。御開山が「信巻」で、第十八願の三心の解釈をされる前段に、善導大師の『観経疏』の 至誠心釈、 深心釈、回向発願心釈を引文されておられるのもその意であろう。もちろん、このような見方は聖人といわれる方だけができることであって、我々は御開山の指南にしたがってお聖教を楽しむだけではある。

なお、古くから「三経一致門」の立場から、『大経』は本願を説く経であるから《薬》にたとえられ、『観経』は救われがたい機の真実をあらわす経であるから《病気》にたとえ、『阿弥陀経』は機法合説といわれ、六方恒沙の諸仏の証誠は《医者》にたとえた法話がなされてきたものである。
ともあれ、浄土三部経には、「三経差別門」と「三経一致門」の両方の見方があるが、要するに、本願を信じさせ、なんまんだぶを称えさせ、必ず往生させ仏たらしめようという阿弥陀如来の本願力回向のご法義であった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

お念仏の称え方

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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幕末~明治時代の学僧であった七里恒順和上は福沢諭吉と昵懇であった。
福沢諭吉が真宗門徒であったからであろうが和上と諭吉氏に以下のエピソードがある。以下、「七里恒順法話集」から引用してみる。

和上は福沢諭吉氏とは、豊前在学の際は、たがいに俊才のほまれをとりつつも、ひじょうに懇意であった。
当時、豊前の風習として、名前を全部呼ばないことが多かった。和上を恒(ごう)や、恒やと呼べば、諭吉氏を諭(ゆ)かい、諭かいと呼んでいた。

あるとき福沢氏がいった。
コリャ恒や、どうも分からぬことがある。真宗の寺院で、参詣者たちが念仏しておるあの有様についてである。あれをみておると、殆ど個々別々に、なんら統一ができておらぬではないか。
一方で、ナムアミダブツと称えておるかと思えば、一方ではナマイダアと半分ぐらいで称えてすますものもある。
婦人などは、いかにも、きえ込むような細い声で称えるかと思えば、壮年は寺をひっくりかえすような声で称える。このような乱雑きわまる状態のまま放置しないで、真宗の信者は、一様に、ナムアミダブツ、ナムアミダブツと、名号全体をを称えるように定め、秩序をつけてはどうか。
これに対して和上はいわれた。

それは、いままでの通りで結構である。別にかえることはいらぬ。早い話が、君の名を呼ぶにも殆ど十人十色、各自別々ではないか。
有る人は、福沢さんといい、ある人は、福沢諭吉という。
おたがいの間のように、親密であれば、ただ、諭かい、諭かいですます。そう呼んでも、呼ばれた君の手許では、さらにかわることはあるまい。
いま如来さまのみ名を称えるのは、十人十色、個々別々であっても、うけるお手許には変わりはない。思想の全分を曝露して、個々別々に称えるのがありがたいのじゃ。

如来から賜った念仏であるから、どのように称えても、それは本願の行である。
なんまんだぶ たまに、いまめがはしく帰命尽十方無碍光如来

老人六歌仙

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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林遊の好きな禅僧の一人に仙厓和尚がいる。
浄土真宗のご法義が解らなくて、石見の国からはるばる博多の仙厓和尚を尋ねた坊さんに、

貴様、南無阿弥陀仏の他に何の不足があってここにやって来たかッ!!

と、怒鳴りつけて引っ込んでしまったというエピソードがあるが、ようこそようこそである。その和尚に「老人六歌仙」という洒脱な句がある。加齢という現象は、生・老・病・死という苦なる無常であるのだが、死の彼方に、輝くような無量光明土という世界を信知するからこそ老いを拈弄(ねんろう)し諧謔(かいぎゃく)することも出来るのであろう。

「老人六歌仙」

しわがよる、ほくろができる、腰まがる、頭ははげる、ひげ白くなる。
手は振れる、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目はうとくなる。
身に添うは、頭巾、襟巻、杖、眼鏡、たんぽ、温石、しびん、孫の手。
聞きたがる、死にとむながる、寂しがる、心はまがる、欲ふかくなる。
くどくなる、気短になる、ぐちになる、出しゃばりたがる、世話やきたがる。
またしても、同じはなしに子を誉める、達者自慢に人は嫌がる。

なんまんだぶのご法義は、若いときに聞いておきなさいよ、というご法義である。
年老いた己を時間軸の上に見出す「老人六歌仙」の世界を信知するとき、愚痴にまみれながらも、なんまんだぶを称える豊かな老いを楽しめるのであろう。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

仙厓和尚「老人六歌仙」
http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/introduction/sengai/sengai06.html

やさしい 安心論題の話

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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WikiArcに灘本和上の『やさしい 安心論題の話』がUPしてある。
このテキストは、今はもう西方仏国の住人である、ネット上の知人の近藤智史さんが入力してくれたものだが、やさしいの語とうらはらに全然やさしくない。
昔、何を間違ったかこのご法義をより深く学ばせてもらおうと『真宗の教義と安心』という薄い書籍を購入したのだがサッパリ判らん。そもそも『教行証文類』も披いたことが無かったので判るはずがない(笑

本願を信じ念仏を申せば仏に成る、という御法義は、信じさせ称えさせ必ず往生させて仏陀の悟りを得させようという「如来よりたまはりたる信心なり」であるから信心が違うということはない。ただ、その回向された賜りたる御信心を、領納する心の据わり(安心)が異なることを案じて論ずるのが安心論題という論義であろう。
出拠の引用が多く、あちこちお聖教を披きまわる必要のある「安心論題」だが、さいわいWikiでは文字間や項目にリンクを張れるので立体的に浄土真宗の綱格を信知するには便利だ。そんなわけで少しく誤字の校正とか聖典へのリンク付けを楽しんでいる。リンク先の文を読むことに嵌って作業は遅々として進まないのだが、それはそれで楽しいものである。

各論題は、それぞれの持つテーマに従って考察しているので、論題の論じる主題だけにとらわれると全体像が見えなくなることもあるだろう。それぞれの論題はあくまで義を指す指であり、御開山が見ておられた世界を垣間見る言葉の補助線であるということに留意しておきたいものである。
ともあれ、本願を信じ、なんまんだぶを称えて、仏陀と同じ悟りを得るというシンプルなご法義の基底には2500年に及ぶ仏教の生と死を超えて来た歴史がある。より正確にいえば釈尊を釈尊たらしめた阿弥陀如来の本願の歴史である。
それはまた、本願に選択された、なんまんだぶを称えて生死を超える「往生極楽のみち」を示しかつ目指した、幾百万幾千万幾億の林遊の先輩方の生の歴史でもあった。ありがたいことである。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→やさしい安心論題の話

「本願を信じ念仏を申す」、これが浄土真宗

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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宗学とか仏教学というものには、とんと縁がないのだが「正信念仏偈」の「帰命無量寿如来 南無不可思議光」について考察しているブログがあったので、WikiArcのノートに追記してみた。 →「ノート:帰命

 

大谷派の金子大榮師は、帰依という語を、死のする処、生のって立つ処と示された。帰依する処とは、死に怯え生に呻吟する我々の、生も死を包みこんで下さる阿弥陀如来の本願の世界である。よく似た語に帰命という言葉がある。「正信念仏偈」の冒頭に「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」とあり、真宗門徒には耳に聞き口になずんだ言葉である。浄土門ではこの帰命の意味をそれぞれの宗義によって特徴づけるのだが、いま本願寺派の『季刊せいてん』(103)の、梯實圓和上の文から窺ってみる。

「本願を信じ念仏を申す」、これが浄土真宗

聖人は「正信偈」で、「どうして私は本願を信じ念仏申す身になったか」ということを二段に分けて仰っています。初めの「依経段(えきょうだん)」といわれる部分には、お釈迦様の教えである『大経』に依って、さらに後半の「依釈段(えしゃくだん)」といわれる部分には、そのお釈迦様の教えを、インドから中国、そして日本へと伝えてくださった七人の高僧方のお勧めに依って、私は本願を信じ念仏を申す身にしていただきました、という風に仰っているのです。

「正信偈」の序文には、「おほよそ誓願について真実の行信(ぎょうしん)あり」(二○二頁)とありました。その「真実の行」というのは「諸仏称名の願(第十七願)」によって恵まれ、そして「真実の信」というのは「至心信楽の願(第十八願)」によって与えられました。これが「選択本願の行信」である。「真実の行信」とは、本願を信じ念仏を申すということです。この選択本願の行信を聖人は「浄土真宗」と呼ばれたわけです。元々、親鸞聖人が言われた真宗というのは、教団の名前ではなく、阿弥陀様の本願のはたらきに名づけた言葉でした。さらに、具体的には、私が、今こうして本願を信じ念仏申していることを浄土真宗と言われたのです。このように、浄土真宗、すなわち本願の行信を讃嘆(さんだん)する身になったことを慶ばれたのが「正信念仏偈」だったわけです。

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」

「正信偈」の最初は「帰命無量寿如来 南無不可思議光(無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる)」(二〇二頁)という言葉で始まっております。この二句は、「南無阿弥陀仏」というインドの言葉を中国語に訳したものです。「私達の思いはからうことのできない、限りない寿命の徳をお持ちになった如来様に帰命したてまつる。人間の思いはからいを超えた、悟りの智慧の光明の徳をもって、すべてのものを導きお救いくださる仏様に帰依したてまつる」。

なおこの二句は、親鸞聖人が阿弥陀仏への帰依と敬順をあらわされた頌(詩)ですから、「帰敬の頌」ともいいます。またこれは前半の「依経段」で讃えられる内容を総じて讃えたもの(総讃)であると同時に「正信偈」全体の総讃でもあります。

その第二句の「南無」はインドの「ナマス」という言葉が変化した「ナモ」の音写語で、第一句の「帰命」とはそれを中国語に翻訳した言葉です。帰命という言葉を、親鸞聖入は、信心と同じ意味で使われています。ナマスという言葉には心から仏や菩薩を崇め尊び敬意を表するといった意味があり、礼拝するといった意味もそこにあります。それを中国では「帰命」と翻訳しました。すると今度は、中国語としての帰命という言葉の意味を非常に厳格に見るようになります。大きく分けて三種類くらいの解釈があります。

一番目の解釈は、帰命の「帰」は「帰投、投げ出す」という意味です(帰投身命)。帰というのは仏様に身命を帰投する。命を投げ出して、すべてを仏様に投げ出して、仏様の教えに従っていこうとする。仏様の教えを受け入れるその態度を帰投身命といいます。

二番目は、「帰」は「帰順、順う」ということで、「命」とは身命ではなくて、「教命」であるという風に解釈しています(帰順教命)。帰命の命とは”いのち”ということではなくて、教えということ。「ああしなさい、こうしなさい」と指図をしていくことを命ずるといいますが、この場合は、命令の命で教えのことです。だから帰命とは「教えに順う」ということになります。
この二つの説は中国の唐の時代に活躍した賢首大師法蔵という方の『大乗起信論』の註釈の中に出ています。

三番目の説は、新羅仏教・さらには朝鮮仏教全体の祖師といわれる元暁という人が『大乗起信論』の註釈をするなかにあります。この説では、「帰」とは「帰還(きげん)」、「命」とは「命根」といってあります(帰還命根)。あるいは、「命をその根源に還す」ということだというので、「還源命根」というようにもいわれます。つまり私の命は、私の命ではなくて、もっと大きな宇宙的な根元的な命であり、それが如来の命であるということに目覚める。そういうことを知るのを「命根を源に帰す」という意味で帰命という、こういう風に解釈するのです。

大きく分けてこういう三つの解釈を、中国、朝鮮半島、日本を通して用いるわけです。日本の浄土教の流れの上でみますと、①の阿弥陀様の仰せに命を投げ出して従っていくことを帰命というのだという言い方をしますのは、浄土宗の鎮西浄土宗、今の知恩院の方たちです。それに対して②の帰順教命という意味で仏様の仰せに順うことだと言ったのが親鸞聖人です。そして③の阿弥陀様という根元的な命に帰す、我が命は阿弥陀の命であったことに気づくのが帰命だと言うのは、大体西山派系の方たちの考え方です。

しかし親鸞聖人の一番特徴的な解釈は、「帰命とは如来の仰せに順うことだ」というものです。阿弥陀仏に帰命するというのは、限りない寿命の徳をお持ちになった親様の仰せに順い、帰依し、その親様の所に帰らせて頂くのだという風に仏様の仰せに順っていく。そして限りない智慧の光をもって万人を浄土へと導き喚びさましてくださる、仏様の本願の言葉に順って生きていく。このように、阿弥陀様の仰せに順って限りない仏の命の世界に帰らせて頂くことを、帰命というのだと聖人は見ておられるのです。

御開山のお示し下さった浄土真宗は、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」、行信不離のご法義である。御消息で、

信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。

と、お示しの通りである。このどちらか一方に偏したことを、先達は「行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫びである」と言われたのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

おおせに従うより手はない

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗は「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」と『歎異抄』の著者が記しているように実にシンプルな教えである。
もっとも『歎異抄』の場合は約生(衆生の側からの言い方)表現であるから、約仏(仏様の側からの表現)でいえば「信じさせ称えさせて迎えとる」である。御開山の『教行証文類』は、ほとんど約仏で書かれている。御開山は、阿弥陀仏の救いを阿弥陀仏の側から語っておられるので『教行証文類』は難解な書だといえる。

さて、御開山は、『歎異抄』で「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」と云われている。
「弟子一人ももたず」ということは、自らが人師の立場を否定すると同時に、一人の念仏者として阿弥陀如来の前の立っておられたからであろう。
浄土真宗では聴聞を重視するので、どうしても法を説く人師の言葉に囚われてしまいがちである。それへの誡めとして、自戒もこめて梯實圓和上の「妙好人のことば」から引用してみる。

 

 お浄土をもってござる仏のおおせにしたがうよりほかに手はない。

 庄松に信心のありさまを伝えるいくつかのエピソードがあります。
川東村の勝光寺の坊守(寺の奥さん)は、のちに敬信院禅尼とよばれ、四国ではじめて女性の布教使になった方ですが、彼女がまだ法義にまどうて悩んでいたころのことです。

 近くの仏照寺へいって、自分のお領解をのべ「これで往生できましょうか」とたずねたら、「それでよい」といわれました。その日はよろこんで帰ったのですが、二、三日するとまた不安な気持になったので、今度は得雄寺へいき、まえと同じようにお領解をのべて「これでよろしいか」というと、住職は「それじゃいかん」とにべもなく否定しました。

 同じようにお領解をのべたのに、仏照寺はいいと答え、得雄寺はいかんといったものですから、この坊守はいよいよ迷うてしまいました。そんなときある同行のすすめで庄松にあったのです。
「仏照寺さまと、得雄寺さまと、どちらのおことばを信用すればいいのでしょうか」

 すっかり信仰の迷路のなかにさまよいこんでいる彼女に対して庄松はいいました。
「仏照寺さまも得雄寺さまもお浄土はもってござらぬ。そのもってござらぬ人のいうことに迷わずと、お浄土をもっておられる仏さまの、必ずたすけるといわれるおおせにしたがうよりほかに手はないではないか」

 この一言で坊守は、はじめて本願に心が開かれたそうです。
まことに真宗の安心の要をいい得て妙といわねばなりません。信心とは、自分の信仰体験を信ずるものでもなければ、人のことばを信ずることでもありません。わがいのちの行方について、何一つ思い定める力をもたないわたくしを、必ず救うて浄土にあらしめるとよびたもう大悲招喚の勅命を聞受するほかにわが心の定まる道はないのです。勅命のほかに領解はない。庄松はそれをあざやかに云い切っているわけです。
{後略}

面白いことに、この仏照寺も得雄寺も違ったことは言っていないのである。
仏照寺さんは、坊守のお領解を聞き「あなたの言うとおりです」と肯定したのであり、得雄寺さんは、「あなたがお領解の通りになっているなら、私に聞きにくる必要はないだろう」と否定したのである。 気がつけばどちらも正しいことを言っているのだが、人の言葉に惑わされると、この坊守のように惑うのであろう。
家のじいさんは、「お聴聞は、言葉を聞くんでないぞ、言葉の響きを聞くんだぞ」と常日頃言っていたものだ。布教使の言葉を聞くのではない、布教使の言葉を通して聞こえてくださる広大な阿弥陀如来の弘誓の願いを聞けということであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

同居の土

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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御開山のおっしゃる事はほとんど人知を超えてるな。
そもそも往生即成仏などと云われる浄土ってわけが解らん。
というわけで、莫迦の林遊にも判りそうな「同居の土」をWikiArcの欄に追記してみた。

 

天台宗では、阿弥陀仏の浄土は凡夫と聖者が混在しているので「凡聖同居の浄土」であるとし、四種の浄土の中でもっとも低位の浄土であるといわれていた。この説の論破が善導大師の「凡夫入報説」(*)であった。 法然聖人は天台宗の学僧であったから、この天台の論理に対するためには、善導大師の示された凡夫入報説によって浄土宗を立宗する必要があったと云われている。既存の仏教思想の枠内にいるかぎり念仏一行をもって凡夫が浄土へ往生する義をあらわせないとされたのである。この意をあらわされた勢観房源智の「浄土随聞記」を下記に追記した。
なお、これを受けられ継承発展されたのが、親鸞聖人の示される大悲が往還回向する往生即成仏の智慧の躍動する浄土であった。それは第十八願に『若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」と阿弥陀如来が誓われた生仏一如の真実の浄土であったのである。このような浄土は、まさに唯だ仏と仏のみが知見する浄土であって、天台の四種浄土説を超えているといわねばならない。御開山が、

安養浄土の荘厳は
唯仏与仏の知見なり
究竟せること虚空にして
広大にして辺際なし  (高僧和讃)

と、讃詠される所以である。

『拾遺語燈録』浄土随聞記

又一時師語曰。

また一時、師(法然聖人)語りていわく。

我立淨土宗之元意 爲顯示凡夫往生報土也。

我、浄土宗を立てる元意は、凡夫、報土に往生することを顯示せんが為なり。

且如天台宗 雖許凡夫往生 其判淨土卑淺。

しばらく天台宗のごときは、凡夫往生を許すといえども、その判ずる浄土は卑淺なり。

如法相宗 其判淨土雖亦高深 不許凡夫往生。

法相宗のごときは、その浄土を判ずることまた高深なりといえども、凡夫往生を許さず。

凡諸宗所談 其趣雖異 總而論之 不許凡夫往生報土。

おおよそ諸宗の所談その趣、異なるといえども、すべてこれを論ずるに凡夫報土に往生することを許さず。

是故 我依善導釋義 建立宗門 以明凡夫生報土之義也。

このゆえに、我、善導の釋義に依って宗門を建立し、以って凡夫報土に生まるの義を明かすなり。

然人多誹謗云 勸進念佛往生 何必別開宗門 豈非爲勝他邪。

然るに人多く誹謗して云く、念仏往生を勧進するに、何ぞ必ず別して宗門を開かん、豈、勝他の為にあらずやと。

如此之人未知旨也。

此の如きの人は未だ旨を知らざる也。

若不別開宗門 何顯凡夫生報土之義乎。

若し別に宗門を開かずんば、何ぞ凡夫報土に生まる之義を顕さんや。

且夫人 問所言念佛往生 是依何敎何師者 既非天台・法相 又非三論・華嚴 不知以何答之。

且つそれ人、言わゆる念仏往生は是れ何れの教何れの師に依るやと問はば、既に天台・法相にあらず、又三論・華厳にあらず、知らず何を以てか之を答えん。

是故 依道綽・善導意 立淨土宗 全非爲勝他也。

是れ故に道綽・善導の意に依って浄土宗を立つ、全く勝他の為には非ずと也。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ


『拾遺語燈録』浄土随聞記』。 同文が 『拾遺漢語灯録』にある。

無功と無効

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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先日記した、〈信知〉の項で、自力無功と自力無効を間違えていたので修正。ついでに自力無功の参照に以下の文を追加した。

自力無功とは、自らの仏道修業による功力(くりき)(修行によって得た力)では、往生成仏の仏果を得ることが出来ないことをいう。親鸞聖人は、『御消息』(6)(*)の、笠間の念仏者の疑ひとはれたる事の中で、

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。

と云われている。ここで「余の仏号を称念し、余の善根を修行して」とは阿弥陀如来の選択された本願によらない行業( 仏道の修行)を修することを自力であるとされている。次下に、

また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。

とされ、本願を信じ念仏を申して仏になる行業を他力であるとされている。本願に誓われている念仏を申した者を浄土へ迎えとり、仏の悟りを開覚させようというのが念仏往生の本願である。
これが浄土真宗の仏道の修行であるから、御開山は、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名(みな)を称するなり。(*)

と、無碍光如来の名(なんまんだぶ)を称える行業を大行と云われるのであった。この行業は、菩薩や声聞の修する行ではなく、ましてや凡夫が行ずる行ではない。御開山が「しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」と示されるように、阿弥陀如来の本願海から度出の大行である。仏作仏行(仏の作(な)す仏の行)の諸仏が修するものであるから大行なのであった。
ともすれば、浄土真宗には修業が無いという僧俗がいるが、これは間違いである。行の無い仏教などというものは存在しない。ゆえに御開山は、教・行・証と、本願のえによって、念仏をじ、仏のを得るとされたのであった。(信は行から開いておられる)
このように自力と他力の対判は、仏道修行の上で論じる概念であり、浄土真宗においては口に〈なんまんだぶ〉と称え耳に聞いてよろこぶご法義なのである。このような人を信心の行者というのである。
なお、無功と似た語に無効という言葉があるが、無効とは、はじめから効力が無く仏道に対して何の功力(くりき)も無いことをいう。いわゆる浄土真宗のご法義の枠中におりながら、一声の称名もしない無力(むりき)の輩を指す言葉である。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ