クリック範囲選択での検索

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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ふと思いついてブログで、クリック範囲選択でGoogleで検索、ネット辞書の検索、Wikipedia、聖典の検索が出来るようにしてみた。自作のWIKI風の文字によるリンクのプラグインはあるのだが、いちいち用語の有無をチャックするのが面倒であった。
たまたま、SNS内で使っていたスクリプトがあったので入れてみた。

また、WikiArcでも使えると便利だと思い、導入したので意味の判らない語をネット等で調べることが出来ると思ふ。
同じ言葉でも仏教語と世間語では意味に違いがあるので、その違いを知ることも面白い。

ちょっとバグがありそうな気もするのだが、林遊しか使わないから、まっいいか。
とりあえず、これでWIKIリンクの無い言葉も、一語一語の意味を確かめながらお聖教を拝読できるのでありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

信知

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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「聞見」というブログ記事中で、信知という言葉を使ったので、WikiArcに「信知」という語を追加してみた。なお、WikiArc(正式名は浄土真宗聖典電子化計画)に於いて、出典が浄土真宗本願寺であるとの著作権表示のない文章や、出典を明示した著作権表記下の区切り線以下の文章、及びノートに記された文章は各投稿者の見解であり、浄土真宗本願寺の見解ではないことに留意されたし。
また、当ブログでWikiArcの内容に言及している場合は、WikiArcの内容が最新であることにも注意されたい、為念。 →信知

引用開始>>

しん-ち

信じ知ること。

阿弥陀仏の教法(本願)を聞いて、我を救う阿弥陀仏の本願力を信じ、自己の罪障と自力無効を知ること。

『一念多念証文』では善導大師の『往生礼讃』、深信釈(*)の「信知」を引かれて、

如来のちかひを信知すと申すこころなり。
〈信〉といふは金剛心なり、〈知〉といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。 (一多 P.686)

とある。
『往生礼讃』では、『観経』の深心を「すなはちこれ真実の信心なり」と定義されている。
御開山は、この真実の信心を『一念多念証文』で、「如来のちかひを信知すと申すこころなり」と押さえ、「信〉といふは金剛心なり」とし、信心とは如来の智慧を賜った金剛心であるとされる。そして「〈知〉といふはしるといふ」といい、金剛心を受けた信知である知とは「煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり」といわれている。
これは信知という語を、如来の真実なる智慧を賜った信(法の深信)と、煩悩悪業に纏われていることを知る(機の深信)という形で二種の深信をあらわされているのである。ともあれ信知とは、機法二種の深信の意であり、それが「すなはちこれ真実の信心なり」であった。(なお和語では信を、〈まこと〉とも読むので、信知を、まこと(如来の真実)を知るとも読める。)

蛇足
近年、浄土真宗の信心を、自覚という言葉で表現する僧俗が多い。元来、自覚という言葉は、「自覚・覚他・覚行窮満、これを名づけて仏となす」(*)とあるように、自ら迷いを断って悟りを開くことを意味する仏教語である。しかし、世間で使われている自覚とは、 自分自身の置かれている状態や自分の価値を知るという意味で使われているので、他力の信心の表現として濫用すべきではない。善導大師が「信知」という言葉を示して下さったのであるから、自覚という言葉より、信知という表現で浄土真宗のご信心を語るべきであろう。 以下のご和讃の信知を、自覚と読み変えてみれば、その違和感が判るであろう。

(32)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ (曇鸞讃)

(73)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ (善導讃)

>>引用終了

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信疑決判と他力自力対判

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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聞見という言葉は「行文類」にもあるのだが、面白い材料(ネタ)があったので暇つぶしに考察してみた。 →「ノート:聞見…殊勝と名づく」

現在の『大正蔵経』の『十住毘婆沙論』では、

信力増上者。信名有所聞見 必受無疑。増上名殊勝(*)

と、なっている。この場合は、

信力増上とは、信は聞見するところあるに名づく。かならず受けて疑ひ無し。殊勝を増上と名づく。

と訓ずるのであろう。御開山の所覧本には、

信力増上者何名有所聞見必受無疑。増上名殊勝

と、信が何になっていたので、

信力増上はいかん。聞見するところありてかならず受けて疑なければ増上と名づく、殊勝と名づく。(*)

と、訓じられ、聞見するところを受けて疑いの無いことを、増上であり殊勝とされたのであろう。つまり、受けて疑いの無い「無有疑心」を、信心の意とされたのである。阿弥陀如来より賜る信心であるから、増上であり殊勝なのである。

このような読み方は、法然聖人の信疑決判釈、

当知 生死之家以疑為所止 涅槃之城以信為能入

まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。(*)

と、本来は信の反対は不信なのであるが、「信」の反対語を「疑」であるとされた示唆によるものであろう。信とは阿弥陀如来から賜るものであり、それを疑いの蓋で遮蔽していることが自力であるとし、法然聖人の信疑決判を、他力(本願力)と自力の対判によって浄土真宗の本願力回向の宗義を明かそうとされたのである。

ともあれ、お聖教をあれこれ拝読することは楽しいことである。もったいないこっちゃな。

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聞見

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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友人の慈海坊さんが、自己の主催する「聞見会」のグループをFBに作成したので「聞見」という言葉についてWikiArcに書いてみた。(*) 専門用語が多いので括弧書きと言葉へのリンクを多用した。
なお、見ることと聞くことが同じという「見聞一致」に関しては、このブログの「眼見と聞見」を参考されたし。

もんけん

眼見に対する語。

自らの眼で見て明らかに認知することを眼見(げんけん)、聞いて理解し信知(しんち)することを聞見(もんけん)という。
『涅槃経』に「見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり。」(真巻 P.356)とあり、諸仏は一切衆生の仏性(ぶっしょう)を、手のひらの上にのせた阿摩勒菓(あまろくか、マンゴー)を見るようにはっきりと知ることができる。しかし十住の菩薩等は、仏の教法を聞くことで自らの仏性(仏に成ること)を知ることができるので聞見(聞いて知る)という。

浄土真宗では、この聞見によって自らの仏性を信知(信じ知ること)することを信心仏性(しんじんぶっしょう)という。
「聞」とは、阿弥陀仏の救いの法である、十方の諸仏が讃嘆する名号を、自らが称えて聞くことを「聞」という。そして、あらゆる煩悩の寂滅した阿弥陀仏の悟りの浄土へ往生し成仏せしめられることを信じよろこぶことをいう。 『無量寿経』には「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。(あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。)」(大経P.41)とある。
浄土真宗では、称即信(しょうそくしん)〈名号を称えること即信心〉とか、聞即信(もんそくしん)〈聞くことは即信心〉などといい、聴聞(ちょうもん)という阿弥陀仏の願いを聞くことをすすめる。阿弥陀仏の本願の生起(しょうき)〈願いを起こされたわけ〉とその躍動している救済のはたらきを聞信(もんしん)することを最も重要とするからである。
親鸞聖人はこのような聞である信を「言聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也。(聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。)」(信巻 P.251)と解釈され、「聞」によって「信」(無有疑心)をあらわされるのである。

参照:『涅槃経』師子吼菩薩品之二

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他力とは野中にたてる竹なれや

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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他力とは野中にたてる竹なれや

よりさわらぬをば他力とぞいう

越後の良寛さんの句だそうだが、米を作る百姓の経験のない人には、ほとんど意味不明の句であろう。稲城和上がこの句を用いて法話をされているのをUPしてあるのだが誤解されないように少しく注釈をしてみた。
なんまんだぶのご法義は天下国家を論ずる方面ではなく、日々の暮らしの中であれこれの煩悩に呻吟している者を対象とするご法義である。その意味では生活に密着したご法義であり、この句も、人が生きるという現場でこそ味わえる句であろう。

以下注釈としてUPした文章>>

この句の「他力とは野中にたてる竹なれや」とは、稲刈りのあと乾燥させるために稲束を竹に架けてることをいう。稲が乾いてくるとそばに寄って竹に触れば稲の穂の実がパラパラと落ちてしまう。このことから他力(本願力)の法には凡夫の側からあれこれと、はからいの手を出すべきではないという意味である。よりさわらぬは御開山の云われる「義なきを義とす」という意味である。田舎の農民の日々の暮らしの機微をご存知であった良寛さんらしい句である。

なお、よく似た句に「他力とは野中に立てる一つ松 寄り触らぬを他力とはいう」(未見)があるそうだが、この場合は法然聖人が「本願の念仏には、ひとりたちをせさせて助(すけ)をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。」(諸人伝説の詞)と仰ったように、選択本願のご法義は、なんまんだぶ(念仏)一行を行じて報土に往生するのであって安心においては助業を用いないことを「寄り触らぬを他力とはいう」と云われたのであろう。
>>

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八万四千の法門

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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八万四千の法門については当ブログの「八万四千の法門は」で、梯實圓和上の『一念多念文意講讃』から、『一念多念文意』で解釈を窺ってみた。
WikiArcのノートでは『大智度論』からこの八万四千という言葉の意味を引用していたので、その読み下しをUPした。同じく『化巻』の「門余釈」の解説を、梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』から窺ってみた。

引用開始>>
下記に引用した『大智度諭』二五(『大正蔵』二五・二四七頁)には仏の救済の対象となる機根には、各々二万一千の婬欲人根・瞋恚人根・愚痴人根・等分人根の四種があって、全部で八万四千になるからそれを対治する法も自ずから八万四千の治法根を説くとされる。いずれにせよ無数の煩悩に対して無数の法門が説かれたことを八万四千の法門というのであろう。

[大智度論]『大正蔵』二五・二四七頁。

復次二萬一千婬欲人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說

また次ぎに、二万一千の婬欲人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。

二萬一千瞋恚人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說

二万一千の瞋恚人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。

二萬一千愚癡人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說

二万一千の愚癡人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたまえり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。

二萬一千等分人根。為是根故。佛說八萬四千治法根。隨是諸根。樂說治法次第。菩薩樂說是名樂說無礙智。

二万一千の等分人の根には、この根の為の故に、仏は八万四千の治法の根を説きたえまり。この諸の根に随いて、治法を楽説したまえば、次第に菩薩も楽説せり。これを楽説無礙智と名づく。

*以下は御開山が八万四千をどのように理解されておられたかを、梯實圓和上の『顕浄土方便化身土文類講讃』から窺う。(註とリンクは私において付した。)

「門余の釈」

聖道門では生死を離れることの出来ない者のために要門を説いて浄土門へと誘引されたわけであるが、その要門さえも如実に修業することのできない愚悪の衆生のために阿弥陀仏は弘願一乗の法を説かれたというのが序題門の心であった、親鸞聖人はそのような仏意を、序題門に説かれていた「門余八万四千(門八万四千に余れり)」という言葉の中に読み取り、聖道門を要門に誘引し、要門から弘願の宗義に帰結されていく釈尊一代の教法の権実の体系を示されるのであった。それは堪不堪から、教法の権実へと展開される釈であった。すなわち、

「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。(*)

といわれたのがそれで、これを「門余の釈」といい慣わしている。

序題門では、法門が無量であることを「門八万四千に余れり」といわれたわけであるから、「余」とは有余(ありあまる)という意味であった。それを親鸞聖人は、八万四千の法門の外に別の法門があることを表す言葉であると解釈し、「余」を「外余」(外に余っている)の意味に転用されたわけである。そして聖道八万四千の権教の外に、阿弥陀仏の本願力回向によって善悪、賢愚の隔てなく、一切の衆生が救われていく本願一乗の法門があることを表していると領解されたのであった。
{後略}

>>

通常は八万四千の法門といえば、釈尊一代の応病与薬の教法を指す。この八万四千を善導大師『観経疏』「玄義分」序題門の文、

依心起於勝行 門余八万四千
(心によりて勝行を起すに、門八万四千に余れり。)(*)

によって、八万四千の法門の他に、別意の弘願の一乗の法があるとされた嚆矢は幸西大徳であった。この幸西大徳の示唆によって八万四千の法門は弘願へ入らしめるための方便である、と確定していかれたのが親鸞聖人であった。
これが、本願を信じさせ念仏を申させ仏になさしめる、の誓願一仏乗の本願力回向のご法義である。

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WikiArcへのノート:八万四千の法門へのリンク

信罪福心について

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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信罪福心

仏教とは智慧と慈悲の宗教である。浄土教では慈悲を強調するので、救済における阿弥陀如来の智慧に言及することが少ない。なお仏教における救済とは拯済ともいい、拯とは両手で拯(すくいあげる)という意味であり、済とは斉の字と通じてひとしいという意味で、救う者が救われる者を自らと等しい者にするという意をあらわす。つまり救う者が救われる者を自己と同一の覚りにするということが仏教における救済である。浄土真宗で弥陀同体の証(さとり・あかし)という所以である。

浄土真宗の救済(拯済)とは、阿弥陀如来の智慧が慈悲となって、本願を信じさせ念仏を称えさせ仏にならしめるご法義である。この慈悲とは阿弥陀如来の智慧が体である。もちろん智慧と慈悲は一体のものであり別のものではない。
御開山は、『正像末和讃』で、

(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし (*)

と、智慧の念仏、信心の智慧と讃詠されておれるのもそのような意であろう。
念仏は智慧であり信心もまた、因位の法蔵菩薩であった阿弥陀如来の智慧の顕現である。この阿弥陀如来から回向される智慧を拒絶し、自業自得の因果を信じ疑いの蓋をしている心を、御開山は「信罪福心」(罪福を信じる心)と云われたのであった。

(62)
罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる (*)

罪福とは因に返せば、罪とは悪であり福とは善のことで、ようするに仏教で一般的に語られる因果の、善因楽果、悪因苦果のことである。
第十八願には「若不生者 不取正覚」(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、生仏一如の善悪を超えた智慧による救済が告げられている。この娑婆の因果を超えた阿弥陀如来の智慧が慈悲となって救済しつつあることへの疑いを「化巻」で「定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。」(*)と云われたのである。なおこの御自釈は真門釈にあるが、定散の専心とあるから第十九願にも通じるのである。

この文証として『無量寿経』では、以下のように罪福を信じて善本を修習するという胎生の因が説かれている経文を引文しておられる。
ただし、「化巻」であるから仏智疑惑を戒めることが主であり一部文言を乃至されて引文しておられる。以下の文字の薄いところが乃至された部分である。
なお、より詳しく知りたい人の為に、末尾に参照用の文章へのリンクをしておいた。

【7】 またのたまはく(大経・下)、
「その胎生のものの処するところの宮殿は、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くること忉利天上のごとくにして、またみな自然なり」と。
【43】  そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、「世尊、なんの因、なんの縁ありてか、かの国の人民、胎生・化生なる」と。
仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。

もし衆生ありて、あきらかに仏智乃至勝智を信じ、もろもろの功徳をなして信心回向すれば、このもろもろの衆生、七宝の華中において自然に化生し、跏趺して坐し、須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとく具足し成就せん。
【44】  また次に慈氏(弥勒)、他方仏国の諸大菩薩、発心して、無量寿仏を見たてまつり、〔無量寿仏〕およびもろもろの菩薩・声聞の衆を恭敬し供養せんと欲はん。かの菩薩等、命終りて無量寿国に生ずることを得て、七宝の華の中において自然に化生せん。

弥勒、まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑなり。 その胎生のものはみな智慧なし。

五百歳のなかにおいてつねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・もろもろの声聞の衆を見ず、仏を供養するによしなし。菩薩の法式を知らず、功徳を修習することを得ず。まさに知るべし、この人は宿世のとき、智慧あることなくして疑惑せしが致すところなり」と。

【45】  仏、弥勒に告げたまはく、「たとへば、転輪聖王のごとき、別に七宝の宮室(牢獄)ありて種々に荘厳し、床帳を張設し、もろもろの繒旛を懸く、もしもろもろの小王子ありて、罪を王に得れば、すなはちかの宮中(獄)に内れて、繋ぐに金鎖をもつてす、

飲食・衣服・床褥・華香・妓楽を供給せんこと、転輪王のごとくして乏少するところなけん。意においていかん。このもろもろの王子、むしろかの処を楽ふや、いなや」と。
対へてまうさく、「いななり。ただ種々に方便して、もろもろの大力〔ある人〕を求めてみづから免れ出でんことを欲ふ」と。
仏、弥勒に告げたまはく、

「このもろもろの衆生もまたまたかくのごとし。仏智を疑惑せしをもつてのゆゑに、かの〔胎生の〕宮殿に生じん。(て、)

刑罰乃至一念の悪事もあることなし。ただ五百歳のうちにおいて三宝を見たてまつらず、〔諸仏を〕供養してもろもろの善本を修することを得ず。これをもつて苦とす。余の楽ありといへども、なほかの処を楽はず。

もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離れんことを求めん。(ば、)

すなはち意のごとく、無量寿仏の所に往詣して恭敬し供養することを得、またあまねく無量無数の諸余の仏の所に至りて、もろもろの功徳を修することを得ん。

弥勒、まさに知るべし。
それ菩薩ありて疑惑を生ずるものは、大利を失すとす。

上記の『無量寿経』に続いて引文される『無量寿如来会』への引文は→ここにある。

それにしても、御開山はやはり引文によって創作をなさっておられるのではあった。そのような意味では単なる辞書的な意味をもっては『教行証文類』は読めないものだという感を深くした。それでもところどころ領解できるところもあるので読んでいて楽しいものである。もちろん仏智深きがゆえに我が領解を浅しとすることは肝に銘じているのは当然である。

(34)
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ (*)

なんまんだぶ なんまんだぶ なんんまんだぶ


参照へのリンク

→信罪福心
→真仮論の救済論的意義

生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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 生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし。http://jodoshuzensho.jp/jozensearch/search/image.php?lineno=J16_0336A02

FBで見かけた、法然聖人の御法語である。
ありがたい御法語であるが、また一面誤解されやすいのかもしれない。下手をすると生きている時に、念仏の功(功徳)を積んで、その功徳の回向によって死んで浄土へ往生するという意(臨終業成説)と捉えられるかもしれないからである。

法然聖人は、『選択本願念仏集」二行章)(*)で、なんまんだぶの称名を「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる 」と、お示しであった。この「自然に往生の業となる 」という意を、本願力回向であるとされたのは御開山であった。

さて、この御法語の、「念仏の功つもり」と仰るのは、銀行の預金通帳に金をつむような功徳の積植(しゃくじき)をいうのではありません。お念仏によるお育てのことを「功つもり」と仰っているのです、とお示し下さったことがある。
そこで、林遊が下手な文章を弄するよりもと思い、以下に梯實圓和上の講演録の一部を抜粋して、この御法語を味あわせていただこう。

 

親鸞聖人の生死観
{中略}
親鸞聖人のお師匠さんに法然聖人という方がいらっしゃいました。
あの法然聖人は自分の生と死をこういう言葉で顕わしています。
「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもあるべしとおもえば生死ともにわずらいなし」
と言い切っています。
さすが達人だなという感じでございます。
「生死ともにわずらいなし」死ぬ事も生きる事も素晴らしいではないかと言っている様な所がありましてさすが達人だな。
私には中々「生死ともにわずらいなし」という所までいきませんが、しかし「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん」という視野の開けというのは私にも微かながらも「あぁなるほど。そういう事もあるな」という事を此頃しみじみと思うのでございます。
「お前はどんな風に生きているのだ」と云われたら「私はお念仏を申さして頂く為に生きています。
そして仏を念じながら、仏様によって開かれた真理の領域を私なりに確認させて頂く為にこの命を与えられているのだ」と思います。
「お前は死んだらどうなるのだ」と云われたら「限りない命の世界に帰っていきます」とズバッと言えたら良いのではないですか、それで死ねます。死ねる様な生き方したいと思います。
何か押しつぶされる様に死んでいく、そんな死に方はしたくないですね。
いろんな辛い事や嫌な事や悲しい事の多い人生、それをひたむきに生きてきた、皆それぞれそうだと思うのです。

人から見れば「あいつは甲斐性無しだ」と云われるかもしれません。
人から見れば「あいつは愚かだ」と云われるかもしれませんが、本人は精一杯生きているのです。
そしてこれしか生き様が無かったというのっぴきならない生き方を私達はしてきたのでございます。
その自分の人生を空しい愚痴の中で終わってしまったら自分が惨めすぎるし、自分が可愛そう過ぎると思う。
辛い事もあったし嫌な事もあったけれども、しかし私にとってこの一生は有り難い一生でございましたと言える様な、思い出深い生涯でございましたと言える様な、そんな人生を全うじてみたいものだなという感じがするのです。
その為にはやはりどうしても一つ生と死を超えた領域に出てこないと、そこからものを考えないと落ち着かないという所がございます。

さて法然聖人が「生けなば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん」と云われたのでございますが、これは阿弥陀様の本願、仏様の願いの中に自分を見い出した時に出てくる言葉でございます。
「念仏の功つもり」というのは、お念仏を通してそして人生の様々な出来事の中に真実を聞き開いていく、尊いものを見い出していく、そういう人生を生きるという事でしょう。
この世の中には無駄なものなんて一つもないのだという事があるのではないですか?。
無駄なものなんて本当は一つもないのでしょう。ただ無駄を作るのが人間の妄念かもしれません。
人間の分別だけが無駄を作るのです。
しかしこの世には本当は無駄なものなんて一つもないのです。どんなものだって尊い意味をもって輝いている。
その全てが尊い意味をもって輝いている様な事柄を、それを少しづつでも知らして貰う。
そして真実のものに触れていく様な、そんな生き方を仏様の御名を称えながら、そういう生き方をさせて貰う。
一日生きれば「あぁこんな事に気付かして頂いた」三年生きれば「あぁこんな事に気付かして頂いた」そんな事がやはり有ります。
私も時々そう思う。
昔読んだ時には何の感動も無かった本を今読んでみると「あぁ素晴らしい言葉だな」という言葉に触れる事がある。
そんな時に三十年・四十年というこの年月は無駄ではなかったなという感じがします。
ただ無駄飯を食っているのではないのだと言える所があります。
仏様に育てられる、それは死ぬるまで成長し続けるのだっていう所もある様です。

一つでも善い素晴らしい事に気が付いたら、今まで生きてきた全てが輝いてくる、そんな所がやはあります。
「命が法の宝だ」と昔の人がおっしゃっておりますが、なるほどなぁという所があります。
「生けなば念仏の功つもり」という世界はそういう世界です。
仏様のお言葉を通して人生の深みに触れ、命の深みに触れて感動する様な、そういう世界を味わった人だけが念仏によって育てられたという喜び、それが「念仏の功つもり」という生き方だと思うのです。
そして「死なば浄土にまいりなん」とズバリ言ってのける。あんな時にはぐずぐず言っていたらダメなのですね。
ズバッと言わないとダメなのです。
そういう世界が一つある。
こういう世界を開くのが仏様の願いだという事です。
これを本願という言葉で顕わしている。
如来様が私達にかけた願いの言葉がある。
その願いの言葉を聞き、その願いの言葉の中に自己の生と死を見い出していくのが浄土真宗でございます。

少し難しい言葉なのですが『大無量寿経』というお経の中に
「たとえわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲いて、乃至十念せん。もし生まれずば正覚を取らじ。」
という言葉があるのです。
短い言葉ですが、この言葉の中に込められた意味を、この言葉の中に込められた深い心を、それを聞き開いていこうする歴史が仏教の歴史だったのでございます。
「たとえ私が、仏陀(真実に目覚めたもの)となりえたとしても、もし生きとしいける全てのものがほんまに疑いなく私の国に生まれる事が出来ると思うて、たとえわずか十遍でも私の名を称えながら生きているものを、もし私の世界に生まれさせる事が出来ない様なら私は本当に目覚めたものと呼ばれる資格がないのだ」という言葉なのです。
もっと言い替えますと
「お願いだから本当に疑いなく私の国に生まれる事が出来ると思ってくれ。限りない命の世界に生まれる事が出来ると思ってくれ。限りない光の世界に生まれていくのだと思ってくれ。
そしてお願いだから私の名を呼びながら、私を永遠な命の親と呼びながら生きてくれ。
そのお前をもし私の世界に、悟りの世界に導く事が出来ない様なら私は仏とは呼ばれる資格がない。目覚めたものと呼ばれる資格がないのだ。」
こういう願いをおっしゃっているのです。
これが阿弥陀仏の願いだ。
いやこの願いが躍動する世界を阿弥陀仏というのだという風におっしゃっている訳です。

阿弥陀仏というのは限りない命、限りない光という意味です。
アミターバ(Amit-bha)アミターユス(Amit-yus)というのは「限りない命、限りない光」という意味なのです。
この人生に限りない光をもたらす、限りある命なるものに限りない命への目覚めを与えるものを阿弥陀仏と呼んでいるのです。
その阿弥陀の願い、この願いの言葉の中に自分の生きる事の意味と方向を聞き開くのです。
先ほど申しました様に、私はこの世に何をする為に生まれてきたのかも知らないし、私が何者であるかも知らない。
その私に「お前は仏の子なのだよ、仏の子として目覚めてくれよ」とおっしゃっているのです。
そして「私の国に、この限りない命の領域を帰るべき命のふるさとと思ってくれ」と願っていらっしゃるというのです。
この願いの言葉を受け入れる事を信心と呼ぶのです。
「そうですか。私は何も判りませんけれども、それでは貴方のおっしゃる通りに私は貴方の所へ生まれていくのだと思います。
死ぬのではなくて生まれていくのだと思いましょう。
そして私は貴方の子であったと思い取らして頂きましょう」こう返事をさせて貰いましたら、仏様は「そうか、お前は私のいう事を聞いてくれるのか。
ではお前は私の仲間だよ」とこうおっしゃって下さいますので、私はその時から仏様の仲間に入れて貰ったという事になるのでしょう。
できたら仏様の仲間として親鸞聖人に「貴方もここに居られたのですか」と言える様な、また法然聖人にも「貴方もここに居られたのですか」と言える様な領域を生きていくというのが念仏者というものなのでしょう。
{以下略}

帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数。
(功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。 )
「本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰入した人は、  阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。」
ありがたいことである。

なお、『法然上人行状画図』(勅修御伝)には、
いけらば念佛の功つもり、しなば浄土へまいりてなん。とてもかくても、此身には思ひわずらふ事ぞなきと思ぬれば、死生共にわづらひなし。
と、あるが意は同じである。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ ようこそようこそ

引用と引文

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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最近、ブログに書く種(ねた)がないので、FB(Facebook)に投稿した文章の再利用。

御開山って、自分の言葉で語るのではなく、自分の言いたいことを経典の文言をして語らしめようと意図されたのであろうか。
このような手法は単なる経典の引用ではなく、引文によって経典の表現を超えて自己の思想を顕わそうとする試みだが、大胆にして常識を超えているとしか思えん。
《引用》とは一義的には他の著作を自己の著作で紹介することであるが、御開山の場合は原典の文章を、原典の本来の意図した意味を超えて《引文》されておられる。つまり経・論・釈の文章を一応は用いるのだが本来の意味を転意されておられる。このような意味から御開山は単に経・論・釈を引用されたのではなく引文されたのであるといわれている。
このことは、経・論・釈の引文によって自己の著作を権威づける為ではなく、元の文章を乃至したり抄要とされておられることからも窺える。
実は、それが浄土真宗の御開山である御開山たる魅力でもあるのだが、後世の者は苦労するところでもある。信心の智慧によって開かれる世界はこのような世界をいうのであろう。ともあれ、その信心の世界が、なんまんだぶと口に称えられることは、ありがたいことである。
「仏性は大信心と名づく」(*)

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

往生の一大事

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗に於ける信心は、他力(利他力)のご信心といい、宗教一般でいう信心と大きな違いがある。
浄土真宗とは『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の選択本願のご法義であり、具体的には弘願他力の念仏成仏の教えをいう。しかるに、世間一般でいわれる信心と綱格がまったく違うので、この本願力回向のご信心に迷う者が多い。特に信心を求めようとして、聴聞を重ね苦闘してきた方ほどその傾向が強い。もちろん真剣な求道ということを全否定するのではないが、このような求道者は信心と自覚を混同してしまい、本願に願われているということの意味を逸失してしまうのである。
この浄土真宗のおいてのご信心の構造については、末尾に参照用の文章へのリンクをしておいたが、いまここでは、七里恒順和上(1835-1900)の『七里恒順和上法話集』の一節を窺ってみよう。

問い
長いあいだ往生の大事(阿弥陀如来に救われて浄土に生まれる大問題)を心にかけ、絶えずお聞かせにあずかっていますが、一念帰命の味わいが、どうしてもわかりませぬ。願力の不思議ということも、名号ひとつのお用(はたら)き、ということも疑いませぬが、なぜ安堵のこころに住することができないのでしょうか。

答え
それは二つの病気があるからである。一つは願力の不思議と聞きながら善根を貯えようなどというこころはないけれど、落ちつきたい、落ちつきたいと思うこころが、しきりに起こる。法のお手許(てもと)をお聞かせにあずかることが後になって、安堵心がえたいと思うこころに値打ちをもたせ、信心を認めようとする。

これは多くの人が落ちいりやすい所で、このような人は、まず、そのこころの方向をかえて、お助けのお手許を、よくよく聞かねばならぬ。自分で往生の大事を気にかけて心配するよりは、五劫という長いあいだにわたって、ご心配くださったものをと思い、自分で、わが胸をながめて早く落ちつきたい、早く落ちつきたいと思うよりは、十劫正覚のあかつきから、おたがいの往生一定の時節を待ちわびたもう大悲のおこころはいかばかりであらせられるかと、附(伏?)して安じる心の向きをかえ、仰いで法のお手許をお聞かせにあずかるがよい。そうすれば、なんの疑うべきことがあろう。
「弥陀の大悲の誓海を、深く信ずる」ということは、この法のお手許のお力の強いのを、そのまま真受けにさせて頂いたことをいうのである。わが心を深めて信ずるのではないのじゃ。

二つには、往生を認めようと思う心が先になって本願を後にする病。
われらの信心は浄土を目当てにして起こすのではない。本願のお力で安堵するのである。こちらはただ、本願におまかせすればよいのじゃ。往生は仏の願力の不思議として治定せしめたもうのである。宗祖親鸞聖人も「ただ不思議と信じさせていただく上はとかくのはからいをたのんではならぬ」とおおせられてある。
わが胸のうちをながめて、とやかく思うのは、みな自力のはからいであって、このように安堵心をえたいと思うこころに値打ちをもたせ、信心を認めようと思うのは、自力の病気のせいであると思い、ひとすじに如来の願力に任せたてまつることである。

浄土真宗の信心の特色についてのリンク
→たまわりたる信心 梯實圓和上
→信心の語義 梯實圓和上
→他力の信の特色 稲城選恵和上

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