無有疑心の法話。

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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無有疑心の法話。
御開山は「本願成就文」で、
 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。(p.251)
と、無有疑心(疑心あることなし)と示される。
なんで聞其名号(その名号を聞く)ことが、疑心あることなしになるのか、にわかには領解できないのだが、御開山はここで、なんまんだぶと称え聞こえる往生成仏の名号が往生の「業因」であることを示されているのであった。
数十年前に聴いたテープだが、山口県の布教使の方が、この無有疑心を巧みにお説教して下さった。
その布教使がある寺の三日間の法座へ招かれた。初日にお腹が痛くなったので寺の近所にある商店街に腹痛の薬を買いに出かけた。
お店に入って、自分が常用している、かくかくしかじかの薬が欲しいと告げたところ、店員さんはありませんと答える。明日ならばありますか? と聴いたところ明日も明後日も一年後もありません。薬屋さんは隣です、と云われたそうである。商店街は看板が密集しているので間違うことも多い。
そして、浄土真宗における無有疑心(疑心あることなし)とは、八百屋に魚が「有」るとか「無」いを論ずるのではなく、全く無い状態を表す言葉が無有疑心(疑心あることなし)であるとお説教しておられた。浄土真宗の信とは「無有疑心」の無い状態を示す言葉であった。そして、何があるか?と云えば選択本願のなんまんだぶがあるのであった。
浄土真宗の賜りたる信心とは、わたくしの信を全く離したときに私の上に顕現する信でした。それは私の上にあるけれどもわたくしのものではないから、越前の門徒は「ご信心」と言い慣わしていたものあった。
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梵声猶雷震

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梵声猶雷震(ぼんしょう-ゆうらいしん)
 〔仏の〕梵声はなほ雷の震ふがごとく。(p45)
あんたぁ、判ったとか分らんとか偉そうなことを言いなさんな。
あんたが判るとか解らんといふ話ではないんだよ。阿弥陀さまの話なんだよ。
何と驚くべきご法義であったかといふことなんだよ。
と、ご法話の後の茶話会で、ションベンちびるほどのご化導であった。
ええ和上さん方に遇わせて下さったものだな。

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還相

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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「教文類」の真宗大綱に、

 つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。
「教文類」p.135

とあり「浄土文類聚鈔」には、

 しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。
「浄土文類聚鈔」p.475

とあり、浄土真宗とは本願力回向の法義であり、往相、還相といふ二利(二つの利益)を示す宗教であった。

➡「宗教」

ところで本願寺教学は、覚如上人、蓮如さんの教学に依拠しているので、御開山の展開された「還相」の意義を説くことは少ない。その伝統を承けた坊さんはやたらに「信心」を強調するのだが、その信心の目指す界(さかい)の意味を説くことはほとんど無い。
御開山は関東の同行に宛てたご消息の中で、

浄土真宗は大乗のなかの至極なり。
「御消息」p737

とされておられた。この「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」とは、
➡「上求菩提 下化衆生」
の大乗の菩薩道を指すのであった。
御開山は、その大乗菩薩道を還相として、往相(浄土に往生する)の目的とされたのであった。

還相の利益は利他の正意を顕すなり。
「証文類」p.335

である。
井筒俊彦氏は、言語的意味のカルマ(=長い歳月にわたる歴史的変遷を通じて次第に形成されてきた意味の集積)といふ視座を示していた。ようするに仏教語は長い歴史の中で育まれた意味の集成といふ意味であろう。
御開山は『唯信鈔文意』の極楽無為涅槃界釈をされておられたのだが、

「涅槃」をば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。「唯信鈔文意」p.709

の列名の意を梯實圓和上の講義から、窺ってみよう。
「梯實圓師講義 還相回向論【4-4】」
https://youtu.be/A7_J_5rmooc?t=3630

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生老病死

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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今回のコロナ禍で思ふのだが、仏教では「生老病死」といふ「苦」を説く。
浄土真宗に造詣のあった小林一茶に、

世の中は地獄の上の花見かな 小林一茶

といふ句がある。華やかに楽しく生きているといふ基底には、自己の存在を奈落に叩き落す地獄があるといふ意である。
人類の文化は、釈尊の死、ソクラテスの死、キリストの死といふ、死といふ事象が根底にあるのだが、現代は、その死を忌避して忘れた死の無い文明であるかもである。
二百歳、三百歳といふ友人や知人が無いように、人は生まれたからには必ず死ぬのである。死ぬという「果」は生まれたといふ「因」である。
釈尊は「老病生死ということを、自分がまだ若く青春と健康と生存の誇りにみちていたときに把えた。自分自身は死すべき存在であって死をまぬがれていない。その死を超克していない者が、他人の死とかそういう死の現象を回避しようとしていることは理に合わない。」(→無明と業─親鸞と現代) と省察されたのであった。

浄土教は、この死と格闘し、生きることも尊いことだが、死ぬことも尊いことであると死を「往生」と定義したのであった。もちろん、仏の本願に誓われた、なんまんだぶと称えた者だけに開示される「往生」であり、ありもしない衆生の側からの信心(faith)を妄想する立場と異なった教義が浄土真宗であった。
ともあれ、

ウイルスで 死ぬのではない
生まれてきたから、死ぬのだ
いまさら 驚くことか……

→生きて 死ぬ いのちを 生きている

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仏伝にみる浄土思想

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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こういう浄土教思想の表現はおもしろいな。

ブッダの生涯 3 (佐々木閑「仏教哲学の世界観」第2シリーズ)

仏伝によって浄土思想の淵源を示すのであるから、浄土真宗の体系と幾分の差があるのだが佐々木閑(しずか)師の「仏教哲学の世界観」からの考察は資するものがあると思ふ。
以下、動画中で使われる浄土教思想特有の用語についてのWikiArcの該当項目へのリンクをあげておく。

参考:

法蔵菩薩
誓願
第十八願
授記
兆載永劫(の修行)
本願
阿弥陀仏
極楽
往生
念仏
六字釈
他力
済度(浄土真宗のすくい)

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花園大学の遠隔授業用連続講座

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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近傍の三国の黒目にある高田派のごえんさんの分散されているyoutubeの講座を順に纏めてみた。
佐々木閑氏は工学の世界から仏教の世界へ入ったのでユニークな視点を持っておられるので面白い方である。

花園大学の遠隔授業用連続講座

佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(1)~1-(24)

https://www.youtube.com/watch?v=VLiFmTujoVc

https://www.youtube.com/watch?v=0kT6xkiP0W8

https://www.youtube.com/watch?v=27ME50MVglQ

https://www.youtube.com/watch?v=4fwsYolbvUw

https://www.youtube.com/watch?v=YsehPx06wDU
6 *
https://www.youtube.com/watch?v=51lUIx4CDaI

https://www.youtube.com/watch?v=ma-KRdCrFWY
8 *
https://www.youtube.com/watch?v=u5TkApXHCXM
9 *
https://www.youtube.com/watch?v=RCxp8bGJmiE
10
https://www.youtube.com/watch?v=s3ndlgl6fmY
11
https://www.youtube.com/watch?v=6IS5c4HE6kw
12
https://www.youtube.com/watch?v=CFE5VWBPn1E
13
https://www.youtube.com/watch?v=ec80WpCqM-I
14
https://www.youtube.com/watch?v=u1Xg5D5BdCc
15
https://www.youtube.com/watch?v=ndy3evteh7M
16
https://www.youtube.com/watch?v=mIbgmGPWLgg
17
https://www.youtube.com/watch?v=UPyQSBWw9-8
18
https://www.youtube.com/watch?v=Be1R7_bt9Jw
19
https://www.youtube.com/watch?v=PnZNtbr6N_8
20
https://www.youtube.com/watch?v=xreZD8sC22E
21
https://www.youtube.com/watch?v=HZ24sJ7eyNs
22
https://www.youtube.com/watch?v=2U4w_AeUGkA
23
https://www.youtube.com/watch?v=-JO6jQIlGks
24
https://www.youtube.com/watch?v=M4uJolDMKQw

勝家と越前一向一揆(佐々木閑 ブッダの最期シリーズ番外編)
https://www.youtube.com/watch?v=zS8NyUAbtpA

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覚如上人の宿善論の導入の意図

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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御開山が依用された七祖聖教には『往生要集』の若干の例を除いて[宿善]という語は無い。もちろん御開山のご著書の中にも宿善という名目(教義上の術語)は無い。

しかし覚如上人は『慕帰絵詞』で、浄土真宗に宿善といふ名目を導入され、後代の蓮如さんは盛んに宿善といふ語を使われて門徒を教化していかれた。
→唯善との宿善論争(『慕帰絵詞』)

この浄土真宗に宿善といふ名目を導入された覚如上人の意図を、梯實圓和上は『聖典セミナー 口伝鈔』で次のように述べておられた。

 ところで覚如上人が、このように光明のはたらきとして宿善を語り、その宿善のはたらきによって往生の業因である名号を疑いなく領受する聞法の器として育てられ、信心を得しめられると、他力に依る獲信の因縁を強調されたのには、それなりの理由がありました。それは、浄土異流の中でも特に鎮西浄土宗を姶めとする自力を肯定する人々からの厳しい論難でした。 たとえば鎮西派の派祖、聖光房弁長(弁阿)上人の『浄土宗名目問答』巻中には、全く自力をまじえずに阿弥陀仏の本願他力のみによって往生成仏が成就すると主張する「全分他力説」を批判して、

このこと極めたる僻事(ひがごと)なり。そのゆえは、他力とは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしかるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。 (『浄土宗全書』一○・四一○頁・原漢文)[1]

といわれています。もつともこれは直接真宗に対する論難というよりも、真宗も含めて、西山派や一念義系の諸派の「自力を捨てて他力に帰する」という主張全体に対するものでした。もし自力の善根が全くないにもかかわらず、ただ他力のみによって往生するというのならば、阿弥陀仏が正覚を成就して本願他力を完成された十劫正覚の一念に、十方の衆生はみな往生してしまって、穢土に留まっているものなど一人もいないはずではないか。しかし現実には迷っているものが無数に存在するのだから、全分他力説は明らかに事実に背いた誤った見解であるというのです。そもそも第十八願には、往生を願う願生の信心を起こして念仏するものを往生させると誓われていて、何もしないものを救うとはいわれていません。信心を起こし念仏するという往生の因は自分で確立しなければ、どれほど強力な本願力の助縁があっても縁だけでは結果は出てきません。信じることと念仏をすることとは私が為さねばならない往生のための必須条件、すなわち因であって、一人一人が貢任を持って確立すべき自力の行いです。もっとも煩悩具足の凡夫である私にできる自力は微弱なものです。しかし本願念仏の功徳はどの行よりも勝れていますし、それに強力な増上縁としての本願力が加わるから、報土に往生することができるのです。それを他力の救いというといわれていました。

このような、弁長上人の教えを承けて、鎮西教学を大成された弟子の然阿良忠上人は、『決疑鈔』巻一(『浄土宗全書』七・二〇九頁)[2]に、次のようにいわれます。自力の因と、他力の縁とが和合して修行が成就し、往生、あるいは成仏の果を得るという「因縁果の道理」は、聖道門であれ浄土門であれ共通している仏法の法理である。ただ聖道門は、自力の要素が強く、他力の要素が弱いから自力の法門といい、浄土門は、自力の要素が弱く、他力の要素が強いから他力の法門と呼ぶことはあるが、自力ばかり、他力ばかりの教えは存在しないといわれています。

こうした「自力と他力が相俟って救いが成立する」と考える鎮西派を始めとする多くの浄土門の学僧たちから、他力の信心、念仏を説く真宗の教えは仏法の道理に背く誤った教えであると厳しく批判されていました。もし往生の因である信心も念仏も如来から与えられたもので、因も縁も総べて他力であるというのならば、結局は弁阿上人が批判されたように、すでに皆救われているはずで、事実と相違することになる。それに信心は如来から与えられたものであるというのならば、一切の衆生に同時に与えられるはずであるから、みな同時に獲ていなければならないであろう。人によって信心を獲る時に前後の差があるというのは矛盾である。もしまた如来は同時に平等に回向されるが、受け取る衆生の宿善に厚薄の違いがあるから、獲信の時に遅速の差が出るというのならば、その宿善が熟するのは自力によるのか、それとも他力によるのか。もし宿善までも如来の他力によって熟せしめられるというならば、道理からいっても全分他力と同じ失に陥り、事実と異なるという過ちを犯すことになる。しかし、もし自力によって宿善が成就するというのならば、自力によって宿善を積み重ねることによって他力の信が起こるという矛盾が生ずる。要するに往生の因である信心も念仏も自力で起こすものであって、他力の信心、他力の念仏というようなものは存在しないということになるという疑難が絶えず突きつけられていました。

それに対し、覚如上人は親鸞聖人が仰せられたように、第十八願の信心も念仏も如来の本願力によって回向された他力の法であると強調し、特に獲信の時に遅速のある道理を、阿弥陀仏の光明摂化を本体とした宿善論を導入することによって論証したのがこの第二章です。

すなわち自己を憑む心が強くて、阿弥陀仏の本願他力の救いを受け容れず、迷妄の自心に惑わされて我執の巣窟に閉じこもっている凡夫は、空しく生死を流転し続けるばかりで、いつまでもたっても生死を解脱することはできません。こうした私どもを自力の巣窟から喚び覚まして、如来の大悲智慧の世界に引き入れるために阿弥陀仏は、機根に応じて権化方便の摂化を垂れて、徐々に教えを受け容れることのできる聞法者を育てられていることを宿善といわれたのです。→トーク:口伝鈔

浄土真宗の僧俗は、七祖や御開山、そして次第相承の善知識が伝えようとされたご法義の基底と、それに対して祖師方がご自分がおられた時代に応じて法を説かれたといふことを考察しない。故に会通(一見、矛盾しているようにみえる記述を道理に照らしあわせ、一貫した趣意のものとして説明すること。)するのだが、会通しすぎるとある意味では祖師方の独自の教学の発揮を無視することになるので要注意である。
もとろん、浄土真宗のご法義は御開山の領解の上に成り立っているので、据わりは御開山親鸞聖人の『教行証文類』である。
→註釈版聖典七祖篇を読む

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負の連鎖

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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マスゴミが連日不安を煽ることで「負の連鎖」が起こるのだろう。
その意味で、日本赤十字社の「病気」→「不安」→「差別」といふ負の循環関係の視点は参考になった。
なお、同じコロナ系のインフルエンザでは、2018-19年のインフルエンザ感染者の推計数は1201万人、死亡は3323人(関連死含む?)だといわれる。
ともあれメディアに騙されずに「正しく恐れる」ためには個々が学ぶべきだと思ふ。

→日本赤十字社のページ

左派系の真宗坊さんは、差別といふ事象には脊髄反射的に声をあげる。それならば、何故マスゴミが煽る不安は、差別につながる可能性に声を挙げないのだろう。
かって社会派の坊さんは、「信心の社会性」といふ識語で真宗教学をリードしてきたのだが、いまこそ「信心の社会性」といふ理念が問われるべきであり、不安を煽るメディアに対して発信すべきではないのか?

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金と金で作られた獅子

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真如法性などといふことを論ずると、深川倫雄和上から、おまえはイランことを言うなと怒られそうだが、昔の布教使は金(真如)と、それが獅子といふ具象化に形を変えて衆生に分かり易く届けられる、なんまんだぶの話をしていた。
金と金で作られた獅子の話は、賢首大師法蔵と則天武后の逸話で有名である。
以下、稲城選恵和上のご法話から引用。

そこでね、『教行信証』を見ますとね、教・行・信・証の四法には、全部真如がついとるんです。「教の巻」にはありませんが、「行の巻」にも、「信の巻」にも「証の巻」にも全部、真如法性と出て来るんです。教は、『愚禿鈔』に、「一実真如の道」とあります。ですからね、教・行・信・証のものがらを言うたら、みんな真如ということになります。これは、丁度こういう事じゃろな。
金の塊をね、子供にやるんです。あんまり喜ばんね。そこで、金の塊を獅子のおもちゃにするんです。おもちゃじゃったら、二つや三つの子供にも通じましょう。ところが、獅子のおもちゃに加工しても金ですからね。ですから、子供は獅子のおもちゃを受け取るままが、金を受け取っておることになりますね。ですからね、御念仏は、真如法性の金のままが、私の世界にちゃんと今はたらいとるという事なんです。そうするとこれは、法がはたらくんですから、信も私がする信じゃないんですよ。私のものは、一切これはね、この手あかがつけられん事になっとる。それが浄土真宗ということですね。それが『教行信証』の内容になっとるんです。(稲城選恵 深川倫雄『如来をきく』探求社p.112)

御開山は『一念多念証文』で、

「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。(p.694)

と、称に「となふる」「はかり」という二義をあげられていた。(→称)
少しく浄土真宗のご法義を聴くと、信心、信心と煩いので、まるで浄土真宗はキリスト教のように信を説く宗教だと誤解する輩が多い。
法然聖人は、

又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。
かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。
又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。(和語灯録p.633)

と、仰せであった。これが御開山の仰る「行信不離」であった。
→「行信不離

信心に惑いてなんまんだぶを知らない人には、前掲の『如来をきく』に説かれていた稲城選恵和上のご法話が参考になるかもである

→「他力の信の特色
→「垂名示形

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深川倫雄和上の謦咳

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集, つれづれ
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深川倫雄和上は、旧軍の士官であり、いわゆる軍隊あがりであったから厳しい和上であった。ある意味では、この厳しさによって、林遊は深川倫雄和上に信心の驕慢の鼻を叩き折られて、愚直に、なんまんだぶを称えるようにさせて下さったものである。
「阿弥陀さまがごいっしょです」のサイトの「深川倫雄和上」の著作の欄には、「信心が欲しければ山口の俵山へ行けば手に入ります。木津西念寺支坊光摂坊の回りには、深川勧学和上の法莚に座し僧俗が捨てた信心が山のように転がっています」、と記したものであった。

厳しい和上であったが参詣者との会食の席などでは、アンタぁ、よう参ったの、まぁこっち来て一杯呑めやと親しくさせて下さったものである。── 和上に見つけて貰えるように会食の席では近くに席をとるようにしていたのは内緒である(笑 ──
以下の法話はyoutubeで見つけた温泉津での「彰順会」での法話である。午前の部は少しくノイズが入っているが和上の口吻(口ぶり。言い方)は、ありもしない信心から、なんまんだぶの味をお示し下さったことを想起し有難いことである。

「第7回彰順会深川倫雄和上」

「午後の部」

→七深信

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